大田堯『なぜ学校へ行くのか』(岩波書店 1984)を読む。
せっかく新年度が始まるので、少し古典的な教育学に関する本を読んで、気持ちを新たにしたいと思い手にとってみた。
父母や教師向けの学習会での話の記録がもとに、当時の学校の現場と、人の発達にふさわしい教育について平易な語り口で述べられている。
著者の大田氏は、生活綴方を紹介するなど、子どもの関心や疑問を重んじる大正自由教育運動に近い考え方で、子どもの可塑性を信じ、権威主義的ではない、成長のあり方を説く。
特に、教師には子ども一人ひとりを違いにおいてとらえる能力が豊かに培われる必要があり、そのためには文学に触れるべきだという主張が印象に残った。
少々長いが、まとめ直すのも面倒なので、筆者の学校教育にかける期待が一番表れている部分をそのまま引用してみたい。
子どものまちがいやためらいに対して、有無をいわせずX点をつけてこれを排除してしまうような風潮が、いまの学校教育では支配的なように考えられます。問いと答えの間にある人間のとっておきの選ぶ力(主体的に考え行動する力)を育てることに、人が人になるための勘どころ、学習と教育の本質があると考えてもよいと思います。
そればかりではありません。今日生活のすみずみにまでしみとおった合理化は、もっぱら生活の中での人々の問いと答えとの間を省略して、早く結果を求める風潮をますます煽っています。もちろん、そのために人間労働の辛苦が軽減されることはよいとしても、それが逆に私たちの思考力を衰弱させてしまうことになっては元も子もありません。
どこかで歯止めが必要なのですが、とりわけ子どもたちは人間発達のすじみちを手堅くたどることなしに人になることはできません。教育はある意味で保守的なものでありまして、子どもたちは問いに対して答えを埋めるための、ねんごろな手づくりの選ぶ力をしっかりときたえこまれなくてはなりません。とりわけ学校は、合理化の進んだ社会生活の中にあっても、あえて手間ひまかけて、人間であることの基礎的能力をたっぷりきたえる場でありつづけることが求められます。学校は人間たることの特質を確実に持続させることにつとめるべきです。その学校までが、問いと答えの間を省略するようでは、学校再生の道はひらけるはずがありません。このように考えると、問いと答えとの間を大切にすることは、単に授業の方法上の問題をこえて、現代社会における学校の存在理由そのものにまでかかわってくるのだと考えなくてはならないでしょう。