齋藤孝『読書力』(岩波新書 2002)を十数年ぶりに読み返す。
本は読んだら捨てることにしているのだが、この本だけはいつか読み返すこともあるだろうと、珍しく取っておいたものである。
齋藤氏は、とりあえず多少の緊張感を強いる文庫100冊新書50冊を読んだ経験を一定のラインとし、筆者の主張の根拠や例証となる事柄を的確に把握し、要約できる力を「読書力」と定義づけている。例えば資料10冊ほど渡されて1,2時間で的確に処理するといった社会で実際に求められる実務能力も、こうした読書体験がベースになっていく。
また、読書は味わうもの以上に習慣とすべきものであるという齋藤氏の考えが印象に残った。
後で使いやすい部分を引用しておきたい。
「溜めをつくる」という言葉がある。力を出すときに、膝を曲げて動きの準備を整えることだ。盛り上がるために、一度低く沈むこともある。心にも「溜め」という技がある。自分とは違う考えのものでも、一応は聞いておくことができるのは、たとえば「溜め」だ。自分の言いたいことをすぐに言ってしまうのではなく、自分の心の中で吟味し、言葉を選ぶのも「溜め」だ。
子どもの読書と大人の読書の間には溝があると先ほど述べた。子どもの読書とは、一度読んでわかってしまうものだ。わからなさに耐える必要がない読書では、読書力は向上していかない。運動のトレーニングで言えば、すでにできる力量の6、7割をいくらやっても筋力はつかないのと同じだ。わからなさが、筋力トレーニングで言えば、負荷である。「わからないところがあるからつまらない」と言って放り投げるのではなく、わからなさをいわば溜めておく構えが重要なのである。
わからない文章が出てきても、そこで放り投げずに耐えて、次の文章へ行く。次の文章で意味がわかることもあるだろうし、そこでわからないこともある。一段落全部あるいは数頁にわたってわからない状態が続くことさえあるかもしれない。しかし、それでもわかっていく予感を探るのが大切だ。何かヒントとなってわかるようになることがある。
満足できない。ただ難解なだけの内容空疎な文章なのか、わからないながらも内容が高度に詰まっている、「満足できるわからなさ」という種類の文章なのか。これを見極めることが読書力向上にとっての鍵になる。
ただの悪文をありがたがって読んでいてもそれは体に悪いトレーニングだ。しかし、負荷がある(難しい文章)といっても投げ出すのでは、力はつかない。難しいからという理由だけで、ハイレベルな本を毛嫌いする傾向は強まってきている。ひどい場合には、「やさしく書けないのは、著者が本当にわかっていないからだ」といった聞いた風な論を悪用して、自分の読解力や知識レベルを上げる努力を怠る者も多い。難しさやわからなさに耐えてそれを克服していった経験は、本当に読書力のある人ならば、誰もが持っているのではないだろうか。
わからなさを溜めておく。
この「溜める」技自体が、読書で培われるもっとも重要な力なのかもしれない。