月別アーカイブ: 2015年12月

『私を番号で呼ばないで』

やぶれっ!住民基本台帳ネットワーク市民行動編『私を番号で呼ばないで−「国民総背番号」管理はイヤだ』(社会評論社 2002)をぱらぱらと読む。
ここ数週間、マイナンバーのメリット・デメリットやマイナンバー通知カードの遅配がニュースを賑わせているが、税や個人情報だけに注目が集まり、国民の番号管理という側面がすっぽりと抜けてしまっている気がしたので、本棚の奥から抜き出してみた。

2000年11月に行われた市民講座での小倉利丸氏の話が興味を引いた。講演の採録なので、段落がなくて読みにくいが、監視社会は外からやってくるものではなく、私たち自身が生み出していくという指摘が鋭い。一般には、負のイメージが強い「監視」の反対に位置するのが、「安全・安心」や「民主主義」だと考えられている。しかし、純粋に便利な生活を求めることが、詰まるところ監視社会の網を強化することであり、選挙や多数決という手続きそのものが巧妙に操られているのが、監視社会の本質なのである。

 民主主義自体は、最終的には多数決によって意思決定する社会ですから、多数決を可能にするように選挙民をコントロールしていく仕組みが必要です。100人が100人ともばらばらな意思を持ったのでは合意はできない。だから、多数決を作り出す仕組みが必要なのです。多数の意思は最初から存在するのではなく、民主主義のシステムの中で、多数決が生み出される。システムが要求する人為的な産物です。そしてこうした多数の意思を生み出すように人々をコントロールする仕方をずっと近代国家は学んできている。文字どおり自由な意思で自由に政治的に意思表示をして、そして選挙して、そして政権に選ばれるというようなことは、極めてナイーヴな発想です。むしろどうやって選挙民の意思や考え方をコントロールするか、コントロールするためには選挙民が一体何を考えているか、市民がいったい、どういうことを考えているのか、あるいはどういう行動を起こしているのかということを日常的に監視をし、さらには、だれを選挙民とし、だれから選挙権を奪うか−現在なら外国籍の人たち、未成年、獄中者などは有権者から排除されていますね−を決めていくことを必要としているという社会です。市民権を奪われた人たちが、同時にもっとも厳しい監視のもとに置かれているということを忘れてはなりません。これは、便利というよりもむしろ社会的な安全、他者からの脅威から自分たちの自由を守るなどの名目で正当化されがちです。それを監視という形で、日本語でよく使われる窮屈なものではなくて、むしろさっき言った便利で自由で、あるいは民主主義の手続きの中に溶け込ませていく形で実現する。ですから、現状の民主主義というシステムそのものを再度検証しなおすことも監視社会を打破する上では必要なのです。僕ら自身が日常生活上自由だとか便利だとか考えていることをもう一回考え直してみて、便利であるということがはたしていいのかどうか、ということを含めて基本的に見直してみる必要があるだろうという風に思います。

yabureやぶれっ!住基ネット情報ファイル

以下、「やぶれっ!住基ネット情報ファイル」のホームページより転載します。

このまま1月利用開始して大丈夫? マイナンバー制度を考える世田谷集会

日時:2015年12月16日(水) 18時30分から20時30分まで
会場:世田谷区立男女共同参画センター“らぷらす”(Tel.03-5478-8022) 研修室3
交通:小田急線 ・ 京王井の頭線「下北沢駅」下車、南口徒歩5分
北沢タウンホール(案内図参照、世田谷区北沢2-8-18)11階
共催:共通番号制度を考える世田谷の会 / せたがや市民講座
この集会のチラシ(会場案内図付き)をダウンロードできます。

『わたしの源氏物語』

瀬戸内寂聴『わたしの源氏物語』(集英社文庫 1993)をだいたい読む。
教材研究の一環として手に取ってみた。
主に桐壺巻から雲隠巻までの作者の思いの込もった解説集である。本文を読むよりも分かりやすく、話の流れも合わせて理解することができる。末摘花や六条御息所に対する共感や、花散里を厚遇する光源氏に対する疑問など、教科書や受験参考書には絶対に書かれていない話が興味深かった。
全部読み切ることはできなかったが、来年、再来年にもう一度しっかりと読み返したい。

『良いセックス 悪いセックス』

斎藤綾子『良いセックス 悪いセックス』(幻冬舎 2001)を大体読む。
女性誌に連載された自身の豊富なセックスライフ体験や、男性誌に掲載されたセックスについての悩み相談などで構成されている。セックスについての軽口な話なので、雑誌のコラムとして読む分には面白いが、一冊の単行本で読み続けるのは少々げんなりであった。

『てろてろ』

野坂昭如『てろてろ』(新潮文庫 1975)を数ページだけ読む。
本日のテレビニュースで作者の訃報を知り、本棚から引っ張り出してみた。
週刊誌「平凡パンチ」誌上に、1969年12月8日号から1970年8月24日号まで、36回にわたり連載された作品である。ちょうど全国的、全世界的に、学園闘争の嵐が吹き荒れた時期であり、本作品もバリケードやデモなどの単語が多数出てくる。
但し、疲れがたまっているためか、活字を目で追うことができなかった。

『公安は誰をマークしているか』

大島真生『公安は誰をマークしているか』(新潮新書 2011)を読む。
産経新聞記者として実際に警視庁公安部を担当した経験を踏まえ、秘密のベールに包まれている公安警察、とりわけ警視庁特別高等警察部(特高)の流れを汲む警視庁公安部に焦点を当てて、その活動を紹介している。警視庁公安部というのは、共産党、中核、革マル、市民運動、右翼、ロシア、北朝鮮、アルカイダなどの「日本国の安寧を脅かす組織」の活動を未然に防ぐための組織である。
筆者は最後に次のような言葉で締めくくる。

 筆者が知る限りでは、公安警察に身を置く人たちには「誰かがやらなければ」という強い正義感を持っている人が多い。一方で、汚れ役を自任するあまり、国と国民を守るためには場合によって手段を選ばなくてもいいという独善に陥る危険性を孕んでいるようにも思う。
 だからこそ、一般の国民も公安警察を知るべきなのである。ぜひ、本書をその入門書として役立てて欲しい。