五木寛之『下山の思想』(幻冬舎新書 2011)を読む。
国家も個人の人生も登るだけでは、やがて行き詰まってしまう。登山と同じように、登るのと同じくらいに下ること、身の丈に応じた国のあり方、後半の人生の生き方を説く。
3.11東日本大震災の後、急遽企画されたのか、五木氏は、登り調子で来た日本の国の行方を案じている。
印象に残った一節を引用してみたい。
太平洋戦争の末期、沖縄まで米軍が上陸しているにも関わらず、私たちは日本が負けるなどとは夢にも思っていなかった。
敗戦を冷静に予想していた少数のエリートはいただろう。しかし、一般の国民は、日本が負ける事態をまったく想像してもみなかったのである。
目をそらす、とは、そういうことだ。(中略)「民」という字の語源には、残酷な意味がある。『漢字源』によれば、〈目を釘で刺すさまを描いたもので、目を釘で突いて見えなくした奴隷をあらわす。(中略)物のわからない多くの人々、支配下におかれる人々の意となる〉と、述べてある。
国民の民、というのは、そういう意味なのだ。だから私は「民」という字が好きではない。人民といういい方も、民主主義という言葉も、なんとなく嫌いである。国は、民の目に釘を刺す存在である。「知らしむべからず」というのは、古代から国家統治の原点だったと言っていい。
しかし、私たちはいまや国に依らなければ生きてはいけない。国家の保障する旅券を持たなければ、隣国にさえ行けないのだ。だからこそ、私たちはこの国の行方に目をこらさなければならないのである。