日別アーカイブ: 2014年11月15日

東洋史 第一課題

皇帝政治の確立と展開について、秦の始皇帝・前漢の武帝・北魏の孝文帝・唐の太宗を中心としてまとめなさい。


はじめに 中国古代の皇帝政治の成否は偏に中央集権的専制主義の確立の如何に掛かってきた。周辺の他民族や領土内の地方勢力,また宮廷内外の親族といった反乱分子を抑えるだけの政治的・軍事的・財政的な威圧が万全であれば,自然と皇帝を求心とする体制ができあがるが,上記の威圧の一つでも綻びが生じると,途端に反乱が生じ,その体制は脆くも瓦解する。

(1)秦の始皇帝 始皇帝は法家の李斯を登用し,全国の兵器および地方の富豪を都咸陽に強制的に集めて争乱の原因を取り除いた。そして,地方を36郡に分け,郡の下に県を置き,それぞれ中央から官僚を派遣し,地方を直接に支配する体制を整えた。中央には丞相,大尉,御史大夫の三権を分立させた上で,皇帝が統括する上意下達の仕組みを作った。
 また政策の批判を許さず,秦記録,医薬,卜筮などの思想に関係しない書以外は焼き捨てさせ,批判した学者など460余人を坑に埋めて殺した。さらに,貨幣を統一することで財政基盤を確立した。また,北は匈奴を討ち,長城を整備し,南は閩・南越を合わせ,周辺民族の活動を抑えた。
 始皇帝は国家の威厳高揚と実務を極めて高いレベルで両立した人物であったが,あまりに改革を急ぎ過ぎたがために,民衆や地方勢力の反発を招き,始皇帝の死後10数年で帝国は崩れることになった。

(2)漢の武帝 古代統一帝国の完成者として,最も著名な専制君主の一人である。秦の始皇帝が目指した中央集権体制は,前漢建国期に地方勢力の伸長により一時期後退を余儀なくされた。しかし,呉楚七国の乱で封建諸国の勢力が弱まったことにつけこみ,武帝は諸侯王の嫡子以外の子弟にも国を分割相続することを許可した「推恩の令」を発し,強固に郡県制を推進した。また,「郷挙里選」を採用して有能な官僚制度を整備するとともに,これまで批判勢力であった儒教を逆に専制支配の思想的支柱として取り込み,徳治主義的な皇帝の印象を植え付ける戦略をとった。
 さらに,五銖銭の鋳造による経済の安定,銭納賦税を始めとする諸新税,売爵制,塩・鉄・酒の専売,均輸平準法など,国庫収入の増加を図ることに努めた。匈奴討伐にも成功し,西域との交易も始められた。
 しかし,武帝の治世の晩年には,相次ぐ外征と土木工事のために民力の疲弊が進み,大商人や大土地所有者が勢力を拡大し,貧民・流民が増加して財政難に陥り,帝国衰退の兆しが現れた。

(3)北魏の孝文帝 鮮卑族出身であるが,都を平城から洛陽に移して漢文化の吸収に努め,服装や言語を中国風にさせ,漢人との婚姻を奨励するなど,非漢民族の皇帝政治を確立させた。その成功の秘訣は,豪族の土地の兼併を防ぎ,税収を確保する目的で始められた均田制の実施にある。均田制は国家が地主から土地を接収し,広く農民に貸し与え,租庸調制や府兵制と一体化されて実施するという,中央集権体制の要となる政策である。また均田制を補完する目的で,農民の戸籍を確定する三長制も施行された。さらに官吏に俸禄を支給する俸禄制も実施し,宮廷内においても強大な皇帝権が確立された。
 しかし,急激な漢化政策と中央集権体制への不満から,帝の死後反乱が起き,国内分裂を招くことになった。

(4)唐の太宗 唐の第二代皇帝となった李世民は,母を同じくする兄弟が4人いたが,「玄武門の変」と言われるクーデターによって,兄弟とその子の諸王をすべて誅殺して太子となっている。
 即位後,後の皇帝政治の典範とも仰がれる「貞観の治」といわれる盛時を現出した。『貞観政要』には,政治のあり方や君臣関係に始まり,政府機構の簡略化,法制の整備,儒学の尊重,さらには宮廷内における安定を図るための皇帝自身の修養の重要さや,奢侈の戒めなどについて,太宗と臣下の間で交わされた政治議論がまとめられている。
北魏で始まった均田制や租庸調制,府兵制を整え,皇帝直轄の門下省を軸に,中書・尚書三省と六部の制を整備した。また,国内では皇帝直轄体制を敷いたが,対外政策では武力を用いずにそれぞれの部族や首長を懐柔し,自治を許し間接に統治する「羈縻政策」が行われ,硬軟の使い分けも巧みであった。
 太宗の死後も唐の歴代皇帝は安定した政治を行ったが,安史の乱以後,皇帝の権威は失われて節度使とよばれる地方勢力が勢いを増し,ウイグルや吐蕃などの周辺民族の侵入も始まった。

むすびに 中央集権的専制主義の綻びが国家全体の崩壊へと傾いていった歴史が示す意味は,現代中国政治においても傾聴に価するものである。

《参考文献》
『世界歴史大事典』教育出版センター(1991)
稲畑耕一郎『皇帝たちの中国史』中央公論新社(2009)

『運河』

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熊切圭介写真集『運河』(平凡社 2011)を観る。
墨田区や江東区、中央区、大田区、品川区、港区の6つの区を中心とした川や運河のモノクロ写真集である。
東京都心において、川や運河は、目の前にありながら視界に入らない、忘れ去られた存在である。工場からの汚れた排水が流れ込み、およそ自然とは対極に位置する人工物である。しかし、そうした宅地や道路、線路の隙間を埋める日陰な役割を担う運河であるが、そのほとりでは、子どもたちがDSに興じていたり、おじさんが釣りをしていたり、住民の生活の中にしっかりと入っている。また、江戸時代の運搬の基盤は運河であり、現在でも高速道路の橋架の下で船を動かす人たちもいる。
日本橋や神田川など東京都心の風景でありながら、周縁から中心を覗いたような「違和感」が残る作品であった。