玄田有史・斎藤珠里『仕事とセックスのあいだ』(朝日新書 2006)を読む。
テーマはずばり「セックスレス」である。一頁に何度もセックスやセックスレスという単語が並ぶ。しかし、スポーツ新聞や「2チャンネル」のような好事家的な内容とは異なり、社会調査データの分析から、社会問題としてセックスレスを位置づける。労働経済学を専門とする玄田氏が労働時間や職場の雰囲気、労働観といった側面からセックスレスにアプローチを試みるのに対し、アエラ編集部を経てパリ第1大学博士課程でセックスとメディアの研究をしている斎藤さんは女性性や男女交際、「負け犬(酒井順子)」といった側面からセックスレスの実態に迫る。
玄田氏の分析によると、労働時間が増えれば増えるほど、雇用が不安定になればなるほどセックスの回数は激減する。また、職場の雰囲気や労働意欲が低いほどセックスレスになる傾向が強くなる。
むすびの中で、玄田氏は次のように述べる。参考にしたいと思ったので、少し長いが引用してみたい。
今回、ショックだった一つはそこです。これまでの働き方が、個人の内面に深く関わっているんだと突きつけられた感じがして。仕事上のストレスが、個人の気持ちやパートナーとの関係にひそかに、そして確実に影響している。いい悪いを超えて、素直に悲しいと思った。
(中略)仕事も大事、夫婦や恋人との関係も大事。だけど、もう一つ本当に大事なのは「遊び」です。仕事とパートナーとのセックスがあまりにも直接的に結びついているのは、やっぱり悲しい。仕事とか、子育てとかいう括りだけじゃなく、もっと広い意味での遊びを一人ひとりが生活の中で持たないと。男も女も、もっと遊ばなくちゃいけない。職場の中の遊びとして、斎藤さんが言うように「色気」というのも必要かもしれない。
(中略)遊びというのは、心を自由にして、敢えて無駄を認めてみるとか、理屈を超えた何かを自分からやってみることじゃないかと思うんです。
(中略)でも、どんな世界でもね、いい仕事をする人って、結局は遊びがある人だと思うんです。それはきっとフランスも日本も一緒でしょう。原点に戻れば、同じかなって。生活が困窮してすべてを売り払ってしまっても、大事にしている一着の着物だけは手放さないという人のなかには、独特の遊びの感覚があるように思う。いつの時代も、どんな国でも、そんな人はいる。生きるためと考え過ぎたら窮屈になっちゃう。つまらない理屈を超えたのが「遊び」なんです。