小林よしのり『「個と公」論』(幻冬舎 2000)を半分強ほど読む。
1990年代を知りたいと思い手にとってみた。小林氏の上梓した『戦争論』に寄せられた批判に、著者自身が一つ一つ丁寧に答えるという内容なのだが、全てが論点ずらしと揚げ足とり、個人攻撃に終始しており、あまりに不快になり読むのをやめた。
月別アーカイブ: 2013年12月
「にじむ『戦争肯定』思想」
本日の東京新聞朝刊に、昨日の安倍首相の靖国参拝について、高橋哲哉東大大学院教授のコメントが寄せられていた。
昨日の夕刊を読みながら、中国や韓国、米国の反発の前に、これは第一義的には国内問題だと感じた。A級戦犯が合祀されている靖国に参拝するという戦争責任と、政教分離が明記されている憲法違反の2つの問題が重複している。そして確信犯的に参拝した安倍総理の人柄は衆院選挙前から分かっていた話である。そして彼を選んだのは、紛れもない日本国民である。高橋氏がその点を分かりやすく解説している。
高橋哲哉さんにすぐにコメントを求めるところは、さすが東京新聞と頷いてしまう。全文を引用してみたい。
国に動員された戦没者を英霊としてまつり、戦死の悲しみを喜びに転換する「感情の錬金術」を生み出すのが靖国思想だ。
安倍首相は集団的自衛権の行使を容認し、憲法改正を目指しているが、もしそれが実現して、海外で国防軍が武力行使し、戦死者が出たときには、また、国のための尊い犠牲だった、尊崇しようという考え方になりかねない。そうした靖国思想を復活させようと参拝したのなら大きな問題だ。
中国や韓国に説明しても、理解は得られない。両国からすれば、自国に侵略してきた軍隊を戦没者としてまつり、戦争を正当化しているのが靖国神社だ。異なる歴史観や信仰を持つ人、韓国の遺族たちは靖国神社への合祀を屈辱だとして取り消しを求めてきたが、靖国神社は拒否している。こういう神社に首相が参拝するということ自体が問題だ。
首相の靖国神社参拝は憲法が定める政教分離に反する疑いがある。軍国主義を支えた神道を国家から切り離すために政教分離を導入した。この原則が骨抜きにされる恐れがある。
安倍首相は参拝で不戦を誓っているが、靖国神社で誓う必然性はない。日本軍による戦争を反省できない施設で不戦を誓うのは矛盾だ。
安倍政権は支持率が高く、おごりがあるのではないか。事前に公約に掲げてなかった特定秘密保護法を強行採決したことと、唐突な参拝には通じるものがある。「静かにやろうやということで、ワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。あの手口を学んだらどうか」と言った麻生太郎副総理のナチス発言とも似ている。
「勉強し続ける社会」
戦争は大きらい
本日の東京新聞夕刊の匿名コラム「大波小波」の文章を引用してみたい。ちょうど小林よしのり『「個と公」論』という本を読んでおり、ふと目が止まった。「公(奉仕)」を賛美し「私(わがまま)」を押さえつけてきた過去の「戦争」によって日本人の美徳が醸成されたと述べた小林氏の『戦争論』への批判に対して、小林氏が誌上で反論を加えるという内容である。読めば読むほど小林氏の弄言に頭を傾げてしまうのだが、コラムの後半はそうした小林氏に対する批判ともなっている。
本年の正月の本欄に「今年はデモクラシー再考の年である」という文章が載った。その通りの展開だったというほかない。概算で全有権者の四分の一の票を得たにすぎない自公が秘密保護法案を強行採決で通したからだ。両院とも「違憲(状態)」と裁かれている国会がこんな暴挙に出られること自体、日本のデモクラシーが名ばかりの制度になっていることの証明だ。政府(お上)のいうことを国民(平民)は黙って聞けといのが本音なのだ。
そして今度は、これまでに三度も廃案になった共謀罪法案が浮上した。その先に狙われているのは改憲であり、「戦争放棄」の放棄だろう。国際情勢を読む目も、粘り強く交渉する政治力もない自民党幹部たちは、愛国心による戦争をカッコいいと美化する小児病に罹っているようだ。
そんな世相の中で多くの人に読んでもらいたい本が出た。やなせたかしの『ぼくは戦争は大きらい』(小学館)である。やなせは中国で戦争を経験したが、その実態はじつにカッコ悪い。そこから付和雷同の戦争賛成でもなく、観念的な反戦でもなく、受動的な厭戦でもない、「戦争は大きらい」という強い意志が生まれてくる。戦争を生きた人のリアリズムである。