文化系トークラジオLife「速水×津田〜『1995年』73年組の生きる道」(2013年11月29日放送 TBSラジオ)を聞いた。
タイトルの通り、ちょうど私と同じ1973年生まれの2人が、日本の社会の転換点となったとする1995年について語るという気をそそられる内容の回である。
学生時代に時間があるときに何に熱中できたかでその後の人生を左右するという指摘があった。1955年生まれのスティーブ・ジョブズやビル・ゲイツはちょうど学生時代にマイクロコンピュータが誕生してきたので、
また、1973年生まれの両者は学生時代にインターネットが普及してきたので
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被災地を巡る|33ヶ月後(東海村〜葛尾村〜福島市)Part.1
一昨年の冬は福島第一原発の南側と岩手宮城の海岸沿いをぐるっと回ってきた。昨年は関東で唯一津波の被害に遭った千葉県旭市の港を訪れた。今年の後半以降、オリンピックやアベノミクス、その他の雑多な報道で、東日本大震災と原発事故のニュースが徐々に減ってきている。日本人はすぐに過去を忘れてしまう。そこで、もう一度被災地の現状を目に焼き付けて、これから考えるべき事柄を整理しておこうと東北を軽自動車で駆け抜けてみた。
野田の芽吹大橋近くの農道にある大型車の車止めを通っていった。神社の鳥居ではないが、通るたびにちょっとだけ別世界に行くような気がするお気に入りの通りである。
2013年12月現在、全ての原発が停止状態となっている。とりあえず、春日部から近い一番近い東海村原発に向かった。何を目標に進もうか案じていたところ、地図を見ると東海原発の近くに科学館があるではないか。常磐道を降りて国道245号を真っ直ぐ進んだ。しかし、残念なことに耐震補強のため休館であった。
東海原発の北側、豊岡海岸から原発の建屋を眺める。写真では少し分かりにくいが、海岸近くにあるにも関わらず、たった数メートルの高台に位置しており、6メートルに津波にも耐えられる防潮堤が設置されているが、東日本大震災並みの津波が押し寄せたらひとたまりもないであろう。
東海原発のすぐ近くにある東海村立白方小学校。大学と見間違えるような立派な建物である。電源三法交付金によるものか、東海村教委のモデル校かなのかは分からない。ただし、生徒が多数集まるような地域環境ではなかった。
東海村役場の正門から。村役場にしては立派な建物である。
東海村より国道349号線をずっと北上した。茨城県常陸太田市、福島県矢祭町、塙町、鮫川村と一気に走り抜けて、田村市小野町のセブンイレブンでカップラーメンを啜る。時計を見ると午後5時過ぎ。南相馬市まで一気に行けば駅前ホテルに泊まれるだろうと勝手な推測のもと、10万分の1の地図とにらめっこして福島第一原発から半径20キロ圏外の近道を探る。そのまま国道349号線を進み、県道50号線に入った。
県道50号線を進み田村市を東へ抜けていく。途中田村市船引町付近は電飾でピカピカであった。行きは意味が分からなかったが、1時間後に帰る際はその暖かさが伝わってきた。
田村市の東にある葛尾村は村内全域が警戒地域にあたっており、全村民が村外に避難をしている。防犯のためか、パトロールの車がずっと村内を走っていた。国道399号線を北に抜けようとしたが行き止まりであった。仕方なく元来た道を引き返すことにした。
民家をよく見てみると、通りの全ての住宅に「除染完了部」という札が掛かっていた。信号以外に全く明かりのない闇の世界であった。帰りに田村市の電飾を見ると、人間の住む世界に帰ってきたような気がしてほっとした。その後、国道459号線を抜けていこうとするも行き止まり。途中タイヤチェーンを付けたり外したりで疲労も蓄積。結局国道114号で福島駅に向かう。駅前のホテルで一泊。
『TVピープル』
村上春樹短編集『TVピープル』(1990 講談社)を読む。
表題作の他、「飛行機』『我らの時代のフォークロア』『加納クレタ』『ゾンビ』『眠り』の5作が収められている。
どの作品も漱石の夢十夜のような脈絡もない作品で、感想や疑問も差し挟む余地のないままに展開していく不思議な内容であった。
『「個と公」論』
小林よしのり『「個と公」論』(幻冬舎 2000)を半分強ほど読む。
1990年代を知りたいと思い手にとってみた。小林氏の上梓した『戦争論』に寄せられた批判に、著者自身が一つ一つ丁寧に答えるという内容なのだが、全てが論点ずらしと揚げ足とり、個人攻撃に終始しており、あまりに不快になり読むのをやめた。
「にじむ『戦争肯定』思想」
本日の東京新聞朝刊に、昨日の安倍首相の靖国参拝について、高橋哲哉東大大学院教授のコメントが寄せられていた。
昨日の夕刊を読みながら、中国や韓国、米国の反発の前に、これは第一義的には国内問題だと感じた。A級戦犯が合祀されている靖国に参拝するという戦争責任と、政教分離が明記されている憲法違反の2つの問題が重複している。そして確信犯的に参拝した安倍総理の人柄は衆院選挙前から分かっていた話である。そして彼を選んだのは、紛れもない日本国民である。高橋氏がその点を分かりやすく解説している。
高橋哲哉さんにすぐにコメントを求めるところは、さすが東京新聞と頷いてしまう。全文を引用してみたい。
国に動員された戦没者を英霊としてまつり、戦死の悲しみを喜びに転換する「感情の錬金術」を生み出すのが靖国思想だ。
安倍首相は集団的自衛権の行使を容認し、憲法改正を目指しているが、もしそれが実現して、海外で国防軍が武力行使し、戦死者が出たときには、また、国のための尊い犠牲だった、尊崇しようという考え方になりかねない。そうした靖国思想を復活させようと参拝したのなら大きな問題だ。
中国や韓国に説明しても、理解は得られない。両国からすれば、自国に侵略してきた軍隊を戦没者としてまつり、戦争を正当化しているのが靖国神社だ。異なる歴史観や信仰を持つ人、韓国の遺族たちは靖国神社への合祀を屈辱だとして取り消しを求めてきたが、靖国神社は拒否している。こういう神社に首相が参拝するということ自体が問題だ。
首相の靖国神社参拝は憲法が定める政教分離に反する疑いがある。軍国主義を支えた神道を国家から切り離すために政教分離を導入した。この原則が骨抜きにされる恐れがある。
安倍首相は参拝で不戦を誓っているが、靖国神社で誓う必然性はない。日本軍による戦争を反省できない施設で不戦を誓うのは矛盾だ。
安倍政権は支持率が高く、おごりがあるのではないか。事前に公約に掲げてなかった特定秘密保護法を強行採決したことと、唐突な参拝には通じるものがある。「静かにやろうやということで、ワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。あの手口を学んだらどうか」と言った麻生太郎副総理のナチス発言とも似ている。
















