月別アーカイブ: 2012年2月

『みなさんこれが敬語ですよ』

萩野貞樹『みなさんこれが敬語ですよ』(リヨン社 2001)を読む。

謙譲語の定義の乱れや、尊敬語と丁寧語の混用、「ら抜き」言葉など、現代語の敬語にまつわる実例や学説などを豊富に紹介しながら、国語学者時枝誠記氏の敬語論に負った自説を展開する。著者は敬語の基本について次のようにまとめる。

  1. 話し手が、聞き手を上位とする場合。話題は自由。いわゆる丁寧語。
  2. 話し手が話題の人を上位とする場合。いわゆる尊敬語。
  3. 話し手が、何者かとほかの者とのあいだの上下関係をとらえた場合。「何者か」は、話し手であることも聞き手であることもある。いわゆる謙譲語。

書き出してみると特に目新しいことはない。要は古典文法の敬語のルールそのままである。つまりは、古典文法通りの敬語のルールを現代語にも適用せよという理屈である。
また、著者は「ら抜き」言葉について、受身・尊敬・自発・可能を表す「れる・られる」の混用が問題であるとしている。「見れる」「着れる」はあくまで誤用であり、「見られる」「着られる」を用いるべきだと述べる。しかし、受身か可能かは文脈で判断が容易であるが、そこに尊敬が入ると文脈では確定できなくなってしまう。そこで、「れる・られる」は受身か可能でのみ用い、尊敬は「お〜になる」「〜なさる」を使うべきだと主張する。
論の新しさはさておき、敬語の乱れという問題そのものの全体像をつかむことができる良書であった。

「ギャップイヤーは日本には不向き」

本日の東京新聞夕刊の文化欄に、早稲田大学教授の石原千秋氏の「ギャップイヤーは日本には不向き」と題したコラムが掲載されていた。

東京大学主導で検討され始めた秋入学は、入学前と卒業後の半年の2回を基本としている。つまり大学は4年制から実質5年制になるのである。この前後合わせて1年間ものギャップイヤーを謳歌できる経済的なゆとりのある学生は、保護者の収入が全国で一番高い東大などの一部の大学に限られてしまう。また石原氏は、「この大学、この学部でよかったのか」と、自分探しを始める若者が多く出ると予想する。悩むこと自体は悪くないが、出直しのためにさらに一年間を空費しなければならず、やり直しの機会を逆に遠ざけるシステムだと指摘する。また、学費収入がない期間を設けることで、体力のない私立大学は淘汰され、有力大学を選別する機能を果たすことになると述べる。

石原氏は、こうした様々な事態を避けるためには、莫大な費用をかけてでも、幼稚園から大学院、さらには企業の秋採用まで含めて、国家規模で一気に秋入学を導入するしかない、それが日本に見合ったやり方であると結論づける。

確かに、東大を頂点として序列化された日本の公教育においては、ゆとり教育が「東大教育学部ー文科省・中教審」の連携から実施されたように、東大主導でしか変わらないという現実がある。しかし、入学後すぐに学校生活を中断してしまうゴールデンウイークや、ここ数年の酷暑を考えると、9月入学7月卒業というのは日本の教育にすぐ馴染んでしまう気がする。

石原氏は「国家規模で一気に導入するしかない」と皮肉るが、教育関連の法規の改定も絡んでくるので、やはり国家事業として導入するしかないだろう。

秋入学に対する一番の抵抗者は、卒業式、入学式を彩る出会いと別れの象徴である桜に思いを寄せる日本人の感性となるかもしれない。

『おまえうまそうだな』

おまえうまそうだな

先日テレビで放映された、藤森雅也監督のアニメ映画『おまえうまそうだな』(2010 日本)を子どもと一緒に観た。しかし、子どもは途中で飽きてしまったので、結局、私一人で最後まで観ることになった。

草食のおかあさん恐竜が、川を流れてきた肉食のティラノサウルスの卵を拾い、やさしく育てるという場面から話は始まる。やがて肉食の恐竜は大きくなるに連れ、母親や兄弟を食べてしまいたいという恐怖から群れを離れてしまう。しかしそのティラノサウルスが、ひょうんなことから今度は草食の恐竜を育てるはめになってしまう。
互いに対立関係にある恐竜同士が、種を超えて家族愛で結ばれるヒューマンドラマとなっている。昨今のアニメ映画にしては雑な絵作りなのだが、大人も十分に楽しめる内容であった。

[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=OV4ZsYSfw6k[/youtube]

『終の住処』

第141回芥川賞受賞作、磯崎憲一郎『終の住処』(新潮社 2009)を読む。
表題作の他、書き下ろし作品『ペナント』が収録されている。
ここ最近私自身が疲れているせいなのか、それとも作者の描く世界があまりに狭小なのか、真偽は不明であるが、ほとんど物語の世界に入り込むことができないまま読了した。せっかく物語の舞台も登場人物の丁寧に描かれるのだが、話の筋も脈絡なくどんどん内面世界へとずれて行ってしまう。登場人物のストレスや存在の希薄がテーマとなっているであろうが、最後は活字を目で追うだけになってしまった。

「古い物 ねじ伏せる力を」

本日の東京新聞夕刊に、芥川賞選考委員を辞任した作家黒井千次氏のインタビュー記事が掲載されていた。
黒井氏は芥川賞について次のように述べる。

芥川賞の場合、選考する側は年齢やキャリアが候補者よりも上で、どちらかといえば古い世界の人が多い。新しい物を新しくない人が選ぶ。そこが面白いと僕は思う。新しい物を新しい人が選ぶのとは違い、新しい物が古い考えなり存在なりをねじ伏せて出てくるわけです。それこそが本当の力ある新しさだと思う。

また、候補作を読んで「どこに身を置いて書いているのか鮮明ではない」と感じることも多くなり、次のように述べている。

主人公が一人暮らしでアルバイトをするような緩い生活環境が描かれた作品が多い。そこで何かのっぴきならないことが起こるわけではない。職場でも家庭でもいいが、生活の場がその人にとって大事なものとしか描かれていない。物足りないなと感じることが増えました。社会が緩く「ニート化」しているせいでしょうか。

確かに、ここ最近の芥川賞を読んでみると、国家や社会、生死の境、人間存在はほとんど描かれない。表現されるのは、「半径5メートル」の生活の中の違和感だらけである。そしてその違和感を突き詰め、純度高く描く作品のみが称されている気がする。