戦後61年目の夏を迎えた。本日は朝からラジオで小泉総理の靖国参拝の話がニュースを賑わせていた。東京新聞によると、小泉総理は「犠牲者に哀悼の意を表すのは日本の文化だ」と語り、首相の靖国参拝については「総理大臣である人間小泉純一郎が参拝している。職務として参拝しているものではない」「思想、良心の自由を侵してはならない。まさに心の問題だ」と反論したとのことだ。生意気な高校生が使うような突っ込みどころもりだくさんの論拠であり、自室に長期間引きこもって自尊心が肥大化した若者のようなロジックに陥っている。
写真の表情を見る限りでは、心からの哀悼の意を表しに参拝したとはとてもとても感じられず、一部の議員や国民に向けた真摯さのアピールを狙った茶番でしかない。
ひめゆり平和祈念資料館の証言員を務める伊波園子『ひめゆりの沖縄戦:少女は嵐のなかを生きた』(岩波ジュニア新書 1992)を読んだ。
戦禍を生き延びた著者が、ひめゆり学徒動員の女子学生の悲惨な末期を語る。「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」との戦陣訓に盲従し、傷ついて歩けなくなった友人や泣きやまない子どもを自らの手で殺し、更に自決することを強いられた先生や友人との別れが滔々と述べられている。そもそも沖縄決戦は「努めて多くの敵兵力を牽制抑留すると共に、出血を強要し、もって国軍全般作戦に最後の寄与をする」と、国体護持のための時間稼ぎでしかない作戦である。琉球の多くの人たちは米兵ではなく、友軍である本土の日本兵に殺されているのである。
そうした国民を犠牲にする作戦を先頭に立って遂行したA級戦犯を合祀する靖国神社を、パフォーマンスとして参拝する小泉総理の判断は正しくない。これは靖国神社の性格の問題ではなく、歴史認識を示す政治の問題である。小泉総理が真に「哀悼は日本の文化」であると考えるならば、きちんとした国立の追悼施設を作り、千鳥ケ淵に毎日でも参拝に行けば良い。