日別アーカイブ: 2006年8月15日

『ひめゆりの沖縄戦:少女は嵐のなかを生きた』

戦後61年目の夏を迎えた。本日は朝からラジオで小泉総理の靖国参拝の話がニュースを賑わせていた。東京新聞によると、小泉総理は「犠牲者に哀悼の意を表すのは日本の文化だ」と語り、首相の靖国参拝については「総理大臣である人間小泉純一郎が参拝している。職務として参拝しているものではない」「思想、良心の自由を侵してはならない。まさに心の問題だ」と反論したとのことだ。生意気な高校生が使うような突っ込みどころもりだくさんの論拠であり、自室に長期間引きこもって自尊心が肥大化した若者のようなロジックに陥っている。
写真の表情を見る限りでは、心からの哀悼の意を表しに参拝したとはとてもとても感じられず、一部の議員や国民に向けた真摯さのアピールを狙った茶番でしかない。

ひめゆり平和祈念資料館の証言員を務める伊波園子『ひめゆりの沖縄戦:少女は嵐のなかを生きた』(岩波ジュニア新書 1992)を読んだ。
戦禍を生き延びた著者が、ひめゆり学徒動員の女子学生の悲惨な末期を語る。「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」との戦陣訓に盲従し、傷ついて歩けなくなった友人や泣きやまない子どもを自らの手で殺し、更に自決することを強いられた先生や友人との別れが滔々と述べられている。そもそも沖縄決戦は「努めて多くの敵兵力を牽制抑留すると共に、出血を強要し、もって国軍全般作戦に最後の寄与をする」と、国体護持のための時間稼ぎでしかない作戦である。琉球の多くの人たちは米兵ではなく、友軍である本土の日本兵に殺されているのである。
そうした国民を犠牲にする作戦を先頭に立って遂行したA級戦犯を合祀する靖国神社を、パフォーマンスとして参拝する小泉総理の判断は正しくない。これは靖国神社の性格の問題ではなく、歴史認識を示す政治の問題である。小泉総理が真に「哀悼は日本の文化」であると考えるならば、きちんとした国立の追悼施設を作り、千鳥ケ淵に毎日でも参拝に行けば良い。

□ ひめゆり平和祈念資料館 公式サイト □

本日の東京新聞の朝刊

本日の東京新聞の朝刊に反骨のジャーナリストむのたけじさんと作家で元新右翼メンバーの肩書きを持つ雨宮処凛さんの戦争の反省についての対談が特集されていた。雨宮さんは自身の右翼活動や自傷行為を引き合いにして現代の愛国心について次のように語る。昨今の愛国ブームを分かりやすく分析している。

戦時中の愛国って、家族とか古里の果てに国家があったと思うんですけど、今の若者の愛国は違う。家族にも、古里にも、学校にも、会社にも身の置き所がないから、愛国に行くという構図があるんじゃないかと思うんです。私もそうでした。本当に愛せるものがないから、自分を肯定するために、愛国にすがりたいという切実な思いがあったと思うんです。

そうしたフワフワした不安に臆病になっている日本人が知らず知らず残虐な戦争へと流れていってしまった事実を踏まえ、ものたけじさんは次のように語る。少々長いが引用してみたい。結局戦争は軍部が始めるものであり、そうした軍部の暴走に流されないだけの自分を築き、時代の危険な流れを素早く予期し、緻密に分析し、そして大胆に行動することが大切だと述べる。

□ 雨宮処凛 公式ホームページ □

結論は一人一人が自分を大事にすることです。人間は一人ずつ生まれてきますから。一人一人が自分の歴史をつくっていくことだ。自分の問題は自分で解決するということです。
戦争体験の継承は、戦争を経験した連中だって、まともに継承できていない。これは裏返せば、戦争を経験したから分かる、しないから分からないということじゃないの。戦争が人類にとって重大な問題だと思ったら、若い人は自分で勉強すればいい。そのとき大事なのはなぜ戦争が起きるのか、誰が戦争をしようとするのか、その原因を明確につかむこと。その原因と闘うことだ。若い人がこだわりなく資料を駆使して戦争を探求すれば理解できると思います。
私が一番憎むのは惰性なのよ、今。惰性に流されたらいけない。過ちを犯すよりいけない。やっぱり日本は今、惰性でしょう。なんかね、一番悪いわ。
悪くてもいいから身もだえしてね、何かを試したりね、道を求めるならまだ救いがあるよ。しくじれば反省するもの。今はしくじりようもない。お利口さんになっちゃってね。八つ裂きにでもされるようなバカが出てこないとダメなのよ。

戦争を許すような空気を食い止めるために大切なのは、やはり日常だな。人間と人間との関係、コミュニケーションが日ごろからうまくいっていないと、いつの間にか、見ざる、聞かざる、言わざるになってしまう。それは急にはできない。普段やっていないことは非常時体制ではなおさらできないの。今が大事なの。