月別アーカイブ: 2005年5月

『ベルリン、僕らの革命』

EDUKATORS_movie

GWということもあり、渋谷へハンス・ワインガルトナー監督脚本『ベルリン、僕らの革命』(2004 独)という映画を観に行った。
評価は分かれる作品であろう。国際的な独占資本主義体制に対してアンチを唱える市民運動に属する若者が、ひょんなことから1968年当時の学生運動の闘士を誘拐するドタバタ劇である。圧政と搾取に機敏に行動しようとする若者の理想に向かう純粋さを描いた作品だとも言えるし、結局は反体制運動は子どもの幼稚な反抗でしかないというテーマを含んだ作品だとも評することができる。おそらくは観るものの世代や経験によって評価は分かれるだろう。ただ政治と恋愛は不可分なものであるという若者特有のエネルギーは十分に伝わってくる。

尼崎脱線事故

ここしばらくJR西日本の尼崎脱線事故の報道がかまびすしい。安全への配慮を含めJR西日本には猛省してもらいたいと思う。
しかし、本日のTBSラジオで森本毅郎さんと小沢遼子さんが指摘していたが、ここまで来るとマスコミによる弱いものいじめの様相を呈してきている。兵庫の事件なのに、鳥取管区の職員までが糾弾の対象となっている。おそらくは非番の者まで反省のため外出を禁じなければならないのだろうか。「一億総懺悔」のような一人の責任を会社全体で負わせるよう仕向けるマスコミの有り様は怖いものを感じる。

『ケータイ・シゴト・ライフ:au edition』

木地本昌弥『ケータイ・シゴト・ライフ:au edition』(サイビズ 2004)を読む。
普通のPC用のホームページを見ることができるブラウザが搭載されたりと、最近のケータイの進化は激しい。本書でもスケジュール管理やメール機能などPDAに匹敵する機能をケータイが持つようになったとケータイの高機能化を称賛している。しかし読めば読むほど、ケータイは簡単なメールとパソコンと連動したアドレス帳管理のみの割り切った付き合い方がよいと合点がいった。

『日本社会の変動と教育』

 宮坂広作『日本社会の変動と教育』(潮新書1976)を読む。
 オイルショックを経て、重厚長大産業へのシフト化を中心とした高度経済成長に対する信頼の揺らぎが見えてきた70年代半ばの教育のあり方について提言を述べている。この当時は高校進学率が90%を越え、単に高校を新設をすれば教育環境が改善するといった見方が影を潜め、人間的な教育が模索されていた頃である。中央教育審議会も「46答申」として有名な「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」という答申を出している。
30年近く前の本だが、現在の日本の教育行き詰まりの原点が端的に述べられている。総合的な学習の時間や道徳の時間の充実からこぼれていく教育の根幹について具体的な実践が求められている。

 学校教育の振興について、全国水準とのギャップを指摘して目標値を設定するやりかたや、義務教育での学校統廃合、開発地域での学校新設、校舎鉄筋化や、高校における総合制高校の単独化、学科の多様化などで、「個性の埋没、連帯感の喪失」を克服して、「みずからの主体性を取りもどし、実践的な社会性と創造的な課題解決能力を備えた、健康でたくましい人間」になることが保障されるであろうか。教育内容の充実についての施策として、公共心の育成、福祉教育の推進、郷土教育の充実、豊かな人間関係の醸成をめざす「宿泊共同生活学習の推進」などがあげられている。現在、日本の教育に画一化の弊がみられ、没個性化、連帯感喪失の傾向が顕著になってきていることは、まさにそのとおりである。しかし、それらの欠陥を真に克服するための方途は、右(上)の教育計画が列挙しているような施策であろうか。むしろ病根はもっと深い所にあり、解決策はさらにラディカルでなければならない。60年代の教育は、生徒間の学力差、学校間の格差を著しく増大させ、学業成績のふるわない子、二、三流の学校に行っている子どもに劣等感を抱かせるようにしてしまった。人間を尊重し、ひとりひとりを大切にするという理念に根ざす地域教育計画が、こんにち最大の課題とすべきは、こうした非人間的教育体制から子どもを解放することである。

『憲法と天皇制』

 憲法記念日ということで、横田耕一『憲法と天皇制』(岩波新書 1990)を読む。
 著者は、天皇制の歴史や、象徴としての是非は問わず、日本国憲法を前提とし、制度としての天皇制と憲法の整合性について丁寧に分析している。
 日本国憲法の第1章では天皇の項目を設け、天皇は日本国民の統合の象徴であると明記している。しかし、同じ日本国憲法の第99条で、天皇は憲法を尊重し擁護する義務を負うとある。神道の総元締である天皇が政教分離を明確に定めた日本国憲法下において、宗教行為と国事行為をどのように分離されているのだろうか。大喪の礼における行為をひとつひとつ取り上げながら著者は日本国憲法支持の立場から国事行為と宗教行為の分離線を定めようとしている。右翼からは天皇の象徴性を汚す行為と指摘されるであろうし、左翼的な立場からは天皇制護持とも揶揄されるような研究に従事している著者の活動には頭が下がる思いである。