月別アーカイブ: 2005年5月

『オペラ座の怪人』

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 アンドリュー・ロイド=ウェバー制作・脚本・作曲『オペラ座の怪人』(2004 米)を観に行った。
 面白いという評判だったのだが、なかなか観に行く機会がなく、上映終了日ぎりぎりに観ることが出来た。オペラ座を舞台にした映画であるが、映画そのものがオペラ仕立てにされており、あの有名なオペラ座の怪人のテーマ曲が巧みに使用されて見ごたえのある作品になっている。

『目でみる世界七不思議の旅』

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森本哲郎編『目でみる世界七不思議の旅』(文春文庫 1986)を読む。
紀元前150年頃のギリシアの旅行家フィロンが選んだとされる世界七不思議について豊富な写真と共に解説している。たまには歴史ロマンに夢を馳せるのもよい。
彼が選んだ七不思議とは以下の通りである。

エジプトの大ピラミッド
バビロンの空中庭園
オリンピアのゼウス神像
ロードス島の巨人像
アレクサンドリアの大灯台
ハリカルナッソスの霊廟
エフェソスのアルテミスの神殿

先日観た映画『ナショナルトレジャー』は、上記のアレクサンドリアの大灯台に近くに建設されたという当時のヘレニズムの東西の知識が集まったというアレクサンドリアの大図書館の秘宝を探り当てるという話であった。私もいつか中国に移住して、夏王朝の宝物でも発掘したいものである。

『世界五大帝国の興亡と謎』

湯浅赳男『世界五大帝国の興亡と謎』(日本文芸社 1989)を読む。
高校生の頃に買った本で、懐かしく読むことができた。ローマ帝国、中華帝国、ビザンツ帝国、イスラム帝国、大航海時代以降のヨーロッパの帝国主義を取り上げながら、帝国主義的な国家に共通する要素を掘り起こしている。著者独自の視点であろうが、中世ヨーロッパの封建制をゲルマン民族移動の混乱を解決するためのキリスト教帝国主義と位置づけ、人類は常に帝国主義的な安定と民族主義的なアイデンティティをマケドニアやモンゴル帝国、ナポレオン帝国なども含め、帝国主義は例外なく内部矛盾を糊塗するために拡大路線を取る。しかし、一国が国境を越えて大きくなればなるほど、各地の民族主義的な勢力が伸長し、それに乗じて、「多国間協調」という名の下に隣国が包囲網を作り、戦争へと流れていく。分かりきった公式なのだが、オリエントから遡って地域という視点ではなく、帝国の誕生から崩壊という観点で歴史を概観してみると歴史に対する見方が大きく変わってくる。

『インターネット述語集』

 サイバーリテラシー研究所所長矢野直明『インターネット述語集:サイバースペースを生きるために』(岩波新書 2000)を読む。
 インターネットにまつわる技術や歴史を分かりやすく解説しながら、技術が先走ることで生じる曲解に基づく表現の自由や通信の秘密の侵害について丁寧な批判を展開する。著者の主催するサイバーリテラシー研究所のホームページを是非参照されたい。単にコンピュータやインターネットを使いこなすだけのコンピュータリテラシーから一歩踏み込んで、コンピュータ上の情報を国家が規制することが、延いては市民社会を脅かすことにつながることを意識することを強調している。本著ではイシエル・デ・ソラ・プールが1980年代の前半に述べた次の言葉を紹介している。

 21世紀の自由社会では、数世紀にもわたる闘いの末に印刷の分野で確立された自由という条件の下でエレクトロニック・コミュニケーションが行われるようになるのか、それとも、新しいテクノロジーにまつわる混乱の中で、この偉大な成果が失われることとなるのか、それを決定する責任はわれわれの双肩にかかっている」

『教養としての世界史』

 西村貞二『教養としての世界史』(講談社現代新書 1966)を読む。
 古代オリエントから第二次世界大戦までの歴史が新書一冊にまとめられている。瑣末な部分は省略しながら、「国家の誕生→繁栄→国内矛盾の増大→反乱or侵略による滅亡→新しい国家の樹立」という洋の東西を問わず展開された国家の盛衰の公式を繰り返し解説している。筆者は次の言葉で歴史というものを学ぶ意義をまとめている。

 ここでナチズムを想起していただきましょう。ヒトラーは死んだけれども、ヒトラー的なるものを生み出す現代社会の条件はそのまま残っています。アメリカのプラグマティズムの哲学者デューイはこういっています。
「われわれのデモクラシーに対する容易ならぬ脅威は、外国に全体主義国家が存在するということではない。外的な権威や規律や統一、また外国の指導者への依存などが勝ちを占めた諸条件が、まさに我々自身の態度のなかにも、我々自身の制度の中にも存在する、ということである。したがって戦場はここに―我々自身と我々の制度のなかに存在している。」
彼もナチズムを糾弾することにおいて人後におちる者ではありませんが、糾弾しただけで問題が解決したことにはならないのです。ナチズムがドイツだけの事柄ではなくて、現代社会がつねに直面している事柄だという点に、つまり「我らの内なるヒトラー」に、注意と警戒を怠ってはならないのです。

私が言いたかったのは、これらの現象が現代西洋だけではない、多かれ少なかれ、どこの国にもおこっているということにすぎません。その場合大切なのは、現代文化の混乱や危機から目をそらさないことではないでしょうか。世界史は、思うに、成功よりも挫折と失敗の場面を、幸よりも不幸を、はるかに多く呈示します。しかし、ヘーゲルがいったように、「歴史の幸福なページは空白」かもしれません。変転してやまない世界史を凝視し、しかもそこから未来への前進の手がかりをつかむには、強い精神力とたゆまない努力とが必要です。