『教養としての世界史』

 西村貞二『教養としての世界史』(講談社現代新書 1966)を読む。
 古代オリエントから第二次世界大戦までの歴史が新書一冊にまとめられている。瑣末な部分は省略しながら、「国家の誕生→繁栄→国内矛盾の増大→反乱or侵略による滅亡→新しい国家の樹立」という洋の東西を問わず展開された国家の盛衰の公式を繰り返し解説している。筆者は次の言葉で歴史というものを学ぶ意義をまとめている。

 ここでナチズムを想起していただきましょう。ヒトラーは死んだけれども、ヒトラー的なるものを生み出す現代社会の条件はそのまま残っています。アメリカのプラグマティズムの哲学者デューイはこういっています。
「われわれのデモクラシーに対する容易ならぬ脅威は、外国に全体主義国家が存在するということではない。外的な権威や規律や統一、また外国の指導者への依存などが勝ちを占めた諸条件が、まさに我々自身の態度のなかにも、我々自身の制度の中にも存在する、ということである。したがって戦場はここに―我々自身と我々の制度のなかに存在している。」
彼もナチズムを糾弾することにおいて人後におちる者ではありませんが、糾弾しただけで問題が解決したことにはならないのです。ナチズムがドイツだけの事柄ではなくて、現代社会がつねに直面している事柄だという点に、つまり「我らの内なるヒトラー」に、注意と警戒を怠ってはならないのです。

私が言いたかったのは、これらの現象が現代西洋だけではない、多かれ少なかれ、どこの国にもおこっているということにすぎません。その場合大切なのは、現代文化の混乱や危機から目をそらさないことではないでしょうか。世界史は、思うに、成功よりも挫折と失敗の場面を、幸よりも不幸を、はるかに多く呈示します。しかし、ヘーゲルがいったように、「歴史の幸福なページは空白」かもしれません。変転してやまない世界史を凝視し、しかもそこから未来への前進の手がかりをつかむには、強い精神力とたゆまない努力とが必要です。

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