暉峻淑子『豊かさとは何か』(岩波新書 1989)を読む。
何度も版を重ねている大ベストセラーである。旧西ドイツの社会保障政策との比較から、日本の社会保障の貧しさをこれでもかと指摘する。旧西ドイツの良い面しか強調していないという嫌いはあるが、バブル景気に浮かれる日本人の浅はかさは十二分に伝わってくる。
著者の暉峻さんは、自己責任、自助努力などのスローガンで福祉を切り捨てようとする当時の中曽根内閣の臨調路線に全面的な批判を加えている。市役所の福祉窓口で生活保護の申請を却下する者ほど有能と見られるといった現場の情況を分析することから、日本の貧困な福祉政策を追及する。現在の小泉政権を捉える上でも参考になるところが多い指摘である。そして、社会と個人の関係について下記のように述べる。
現在、私たちは、私有財産制度のうえに、完全に個人として生きていると思いがちである。だから、自己責任とか、自立自助、契約の自由等については、当然のこととしてあやしまず、また個人として生きるうえにとくに支障はない、と考えている。
しかし個人の自由が、じつは共同体的な土台によって支えられていることを、私たちは忘れてはならない。共同体的な土台を、自然環境にまでひろげて考えれば、その意味はいっそう明白になる。人間は、いつの時代にも、社会的な動物として生きており、個人として生きることは、同時に社会人として、共有の場に支えられて生きることでもあった。
暉峻さん自身、目指すべき明確な家族像なり社会像を提示することはしない。彼女の示唆する「豊かな社会」は極めてぼんやりとしたものである。労働そのものを否定せず、労働の価値を尊重した上で、地域と家族の幸福につながる労働のあり方を次のように提示する。
もし豊かに人生を生きる、という発想からすれば、「ゆたか」とは、ひとびとの共存、自然との共存をひろげていくような労働を意味する。エーリヒ・フロムは、それを、人間や未来に対する思いやりと連帯のための能動性だと言っている。
そう考えてくると、私たちは、労働時間の短縮、つまり自由時間の増大だけではなく、労働のありかたを変えていくことなしには、豊かな生活はありえない、という課題に到達する。つまり、生活の中の労働と、社会的な労働を統一する必要にかられる。
生活とも、地域社会とも切りはなされ、消費のたのしみしかなく、あるいは営利企業に組織されたレジャーのたのしみで、自分自身がふり回されている。そういう生きかたから、そろそろ私たちは脱却すべきではないのだろうか。
私たちは、本当は労働時間の短縮だけでなく、労働のなかにも豊かさを体験したいと望んでいるのではないだろうか。そしてその欲求は、社会全体の流れを変えることなしには、実現できないことを知っているゆえにこそ、まず手はじめに、労働時間の短縮をねがい、人間らしい生活をするゆとり、思考するゆとり、感じるゆとり、地域社会を作っていくゆとり、政治参加の時間を持つゆとり、を得ようとしているのだと思う。