月別アーカイブ: 2002年8月

amlより転載

こんな社会はもうイヤだ 治安と管理の現在を考える討論会へ!
発題:宮本弘典さん(関東学院大学教授、刑法)
・8月18日(日)午後3時〜
・日本基督教会館6階(地下鉄東西線早稲田駅下車)

会場費400円今の社会は果たして「自由」なのか? 確かに100年前と比べれば格段に「自由」になっている様に思える。私たちは、昔よりは自分の意志でもって行動し、色々な生き方をすることができうる。

だったらこの社会は、いい社会なのか。そうも言い切れない気がする。いや、むしろ最近では、そう思えないことのほうが多くなっていないだろうか。
日本社会は出口なしの不況にあえいでいる。これから抜け出るために国家や財界は必死である。働く人たちも職を確保するのに懸命である。社会に余裕がなくなりつつある。
そうすると弱い者から切り捨てがはじまる。監獄や精神病院では、収容されている人をますます閉じ込めておこうという動きが出ている。具体的には、無期懲役囚を終身刑化していくことであったり、心神喪失者医療観察法案という名の新たな保安処分の導入である。

また、過激派・暴力団・オウム・「三国人」など、少数派に対する圧力も厳しくなっている。普通では考えられない微罪での逮捕など、当たり前。その団体に属していたり、属性を持っているだけで犯罪、といわんばかりのような状況ができている。

その一方、みんなに等しく管理の輪がかけられつつある。この8月5日に施行予定の住民基本台帳ネットワークでは、日本国民全員に11桁の番号が割り振られ、個人情報を国家が集権的に管理する時代がはじまろうとしている。
そして、最大の人権侵害である戦争、これに国民を動員する有事法制を制定しようという強い動きがある。

ここにも書き切れないことが沢山あります。こうした動きをどう捉え、どうしていけばいいのか。まずは、自分にとって身近なことから考えていけばいいと思いますが、では全体として社会はどういう方向に行こうとしているのか? それを考える場を持ちたく、呼びかけます。

第1回目は、関東学院大学の宮本さんからお話を頂き、討論していきたいと思います。こうした場を何回か持ち、より大きな輪を作り出していきましょう。ぜひご参加下さい。

呼びかけ人:のびた(救援連絡センター)、ぺぺ長谷川(交流家)、なすび(山谷労働者福祉会館)、星山京子(牧師)、小田原紀雄(牧師)
連絡先:救援連絡センター( 03-3591-1301、kyuen@livedoor.com)

『プロ野球場外乱闘!』

駒田徳広『プロ野球場外乱闘!』(角川oneテーマ21 2001)を読む。
おそらくはゴーストライターの手によるものであろうが、なるほどと思う場面も多かった。野球は国民的スポーツと言われて久しいが、旧来の日本人的な習慣、風習を色濃く反映したものである。そのため野球を論じることが日本社会を論じることに直につながる構造になっているので、どうしても行き着く所は日本文化論的な内容になってしまうのだ。それは全4章で構成されていて、第1章が「組織の中で生き残るには」「黙っていれば年棒はアップする」という日本人の行動原理から話は始まり、最後第4章では「負けているときにこそ指揮官の器が分かる」「引き際に美学を感じさせた監督」という日本人論で終わることからも伺い知れるであろう。
何か文章変……。

『激辛!バイク選び’88』

万沢康夫『激辛!バイク選び’88』(ベストバイク社・講談社 1988)を読む。
古本で買ってきたものだが、懐かしバイクの写真に感懐も深かった。その中で現在の大型スクーターのブームの原点ともなったHONDAの「FUSION」の説明を紹介してみたい。

85年の東京モーターショーにフュージョンが始めて展示されたときに、その発想の日本ばなれしていることに驚いた。これは正しくスクーターのアメリカンなのだが、それだけではない。2輪車の将来のあり方にひとつの提案を投げかけているもののようにも思えた。それはバイクの持っている爽快感と、クルマの持つ快適さをうまく合わせた乗り物の可能性をほのめかせているからだった。

当時のレプリカブームの中で、フュージョンに着目するとは著書の視点は鋭い。80年代末のレプリカブームの後、ゼファーを中心とするネイキッド、スティードを中心としたアメリカン、SRからTWへつながる渋谷系と様々なブームがやってきたが、そうした変遷をへて大型スクーターが爆発的にヒットするとは思いも寄らないものである。そして今回の大型スクーターは一過性のブームに終わらないひとつのジャンルとして根付いていくものであろう。

この本を読んで思ったが、バイクは常にその原点を問われるものだ。その原点がZ2にあるのか、ハーレーにあるのか、CBなのか、GSにあるのか、XLにあるのか意見は分かれるところであろうが、常に原点に返ろうとして「進化」を続けている工業製品もめずらしい。

『哀しい予感』

吉本ばなな『哀しい予感』(1988 角川書店)を読む。
淡々と家族の信頼の絆を描いた作品である。展開もスムーズでハッピーエンドで終わるので読後感は良いが、こってりとした作品が好きな私にとっては少し清潔感があり過ぎるというのが感想だ。何かしら老境の父吉本隆明の先を進んでしまっているような落ち着きが、作品のかしこに感じられる。

本日の新聞より

今日の東京新聞の一面は、中田宏横浜市長による住民基本台帳ネットワーク市民選択制の発表の記事だった。既に福島県矢祭町、杉並区、国分寺市が表明している住基ネット「不参加」ではなく、「市民選択制」とした点に対する評価が集まっている。「選択制」は言葉の上では好印象であるが、実施段階でうまく機能するのか不明である。しかしいずれにせよ345万人を抱える横浜市のトップが総務省に反対の意を表わしたことは評価したい。

昨日の夕刊の文化欄に、ジャーナリスト櫻井よしこさんが、「住基ネットの嘘」という文章を寄せている。

 米国では昨年の九月十一日のテロ事件以来、国民への監視も必要だとして番号制の導入の法案が出された。しかし、議会はこれを否決した。危険人物の特定も必要だが、行き過ぎた監視は民主主義と人の心を抑圧するという理由からだ。政治家が真に国民の代表であるなら、国民の個人情報を一元管理し、個人情報を危機に晒すことはやめるべきだ。見えない力で国民を抑圧する仕組みには断固反対すべきだ。しかもこの仕組みは国民への偽りの説明の中から生まれてきた。個人情報と民主主義、そして自由な精神を、こんな偽りの仕組みの前に屈服させることになってはならないのだ。誰もが闊達に生きるためにも、住基ネットは止めさせなければならないと思う。

櫻井よしこさんと言うとこれまであまりいい印象はなかったが、こと個人やメディアが民主主義を守るといった自由主義的な観点から一貫した発言をしているのは評価に値する。

しかしこの住基ネットの持つ悪点を過小評価している気がしてならない。そもそもこの住基ネット構想は有事法体制を補完するものとして生まれてきているのだ。例えば朝鮮有事の際、米国部隊が軍事展開を行う際、見分けのつきにくい、日本人と韓国・朝鮮人の区分を明確にする等に用いられるのだ。昨日2002年版防衛白書が発表になったが、依然朝鮮半島での有事を