村上龍『ラブ&ポップ』(幻冬舎)を読んだ。
数年前に庵野秀明監督の映画を見たが原作を読むのは初めてだ。援助交際をする女子高生が、実は他者との出会いの「可能性」に対して飢えているということをテーマにしたと作者である村上龍は述べている。作者と同じ視点に立っているスタンガンを持ったぬいぐるみ好きの登場人物をして、作者は女子高生の裕美に次の言葉を言わしめている。
僕ね、悪いけど田舎に行くとぞっとするのね、嫌で嫌でぞっとする、肥料の匂いとかそういうんじゃなくて、ほら、他人なんかいないでしょ? 全部知人でしょ? 他人に出会えないっていうのは死人と同じだと、ぼく思うけどね、もちろん知人は大事よ、子供は親が必要だし、病気の時や災難の時とかもね、でも、知人だけじゃ生きられない人間もいるってこと、特に、若い時はそう、高校生なんか親と教師だけで済ませてる子はもうそれだけで腐ってるもんね、他人という新鮮な風を受けないと、人間だって腐るんだから
援助交際で知り合った特異なフェティシズムを持った相手すら、自分のそうした出会いのバラエティーに含めてしまう女子高生の姿を鮮明に描いた作品であった。そうした女子高生の姿を描くことは、逆説的にテレクラや出会い系サイトの利用以外にのめりこむものがないという社会的な問題を提起している。しかしそうした社会的な制約の中で現実肯定的な生き方を懸命に模索していく女子高生を見事に浮かび上がらせているが、その先にどのような生き方が望まれるのか、作者村上龍はこの作品では述べていない。
見ず知らずの男とエッチをするという実感が裕美にはない。学校の、礼拝の時とかに演説する倫理社会の先生は、貞操観念というものは神によって確立されています、と今年になって二回言った。おやじの読む週刊誌には、ヌードやソープランドのことはあっても、女子高生が見ず知らずの男とエッチするのがなぜいけないことなのか、一行も書いていない。テレビやラジオでもそんなことを言う人は一人もいない。ここはバチカンではなくて日本なので、神様が貞操観念を確立した、なんて本気で言えば小学生だって笑う。なぜいけないのかわからなくても、いけないことはきっといけないのだろうと裕美は思う。一人になってから、裕美は、絶対にあの指輪を援助交際をして手に入れる、ということについて、それが本当にいけないことだという根拠みたいな何かがあるだろうか、探した。あるいは今の自分にとってもっと大切な何か、援助交際をして指輪を買ったりしなくても済むようなもっともっとすばらしい何かがあるだろうか、と自分の中を探してみた。小さい頃から両親や先生が自分に言ってくれたこと、本や雑誌に書いてあること、ラジオで聞いたこと、歌の歌詞、テレビや映画やビデオで見たこと、そういう中から探した。何もなかった。