佐高信・テリー伊藤『お笑い創価学会 信じるものは救われない』(光文社)を読んだ。
テリー伊藤が入っていることで読みやすい本であったが、戦前天皇制やナチズムとの類似を踏まえて、創価学会ひいては池田大作を批判しており、読みようによっては近代社会の落とし穴に対する警鐘として読むことができる。
池田大作批判が許されない創価学会=公明党について竹入事件などの具体例を挙げて、池田大作絶対の集団として、オウム真理教や統一協会、共産党と同系列に批判している。しかしこのような批判の仕方では初期の「ゴーマニズム宣言」のこばやしよしのり氏と同じである。集団に流されない主体的な「個」の確立と自己肯定という考え方は、その人の属する集団に対する責任から容易に逃れることにつながる。やれ戦後生まれには戦争責任はない、行政責任をとられる立場にないので差別や抑圧には関わっていない等々。社会集団に属する主体的自己への疑念を前提とする発想が求められるのではないか。
とりわけ小田実氏の1964年の10月号の「文藝春秋」に掲載された『絶対帰依の美しさの中で』が興味深かった。一部引用してみたい。
(創価学会の会合に参加した感想として)例えば『第三文明』という若きインテリの機関誌にまで共通して見られることは、絶対者への絶対的な帰依だろう。そこにたとえ論理があっても、その論理は帰依の内部を動く。帰依を深化させる方向にだけ働き、その帰依自体をもう一度根本的にうたがってみるという方向には働かない。
(中略)(創価学会のバイブルとでもいうべき)『価値論」を今日に生かすためには、それをもう一度根本からうたがってみるという作業が必要なのだろうが、学会員がときとして発する次のようなことばは、彼がその作業をすませているかどうか、私には疑念を抱かせるのだ。
「信心しないから、判らないのですよ。」あるいはまた、「信心しているから、私たちはちゃんとしているのです。」
私は、そのちゃんとしていると自分には思える自分をもう一度疑うことから、すべてを始めたいと思う。それは、過去の経験と歴史が導き出して来た私の思想なのだが、そうした言葉を発する学会員もまた、そのような過程をたどって、その絶対的確信に達したのだろうか。
この文章が書かれたのが1964年という、60年安保闘争が終わりをつげ、69年の全共闘よりも前の反戦運動にとっては空白期に近い時期というのが興味深い。このような点が小田実氏のベ平連運動の原点となっているのであろう。