読書」カテゴリーアーカイブ

『インターネット近未来講座』

先日読んだ本の感想をちょっと。

村井純・坂本龍一・成毛真・佐伯達之『インターネット近未来講座 (GIGABIT SOCIETY)』(アスキー出版局 1996)を読んだ。
少々古い本であるが、96年刊行当時から5・6年先のネット社会への展開を、予想を交えながら語っていくという内容である。
マイクロソフト社長の意見など読むと、さもインターネットが人々の生活をより豊かにするかのごとく描かれているが、果たしてどうだったであろうか。DSLの実現やウインドウズの発展など技術的にはかなり実現しているが、SOHOの限界性もすぐ露になり、電子マネーにいたっては「2000円札」と同じ運命を辿りそうな感さえあり、我々ユーザーの意識は予想ほど変わっていないというのが正直な感想だ。
確か当時はインターネットは国家の枠組み、組織の上下を越えて情報を送ることのできるツールであり、真にインターナショナルな連帯を促すものだと盛んに喧伝されたものだが……。

『凍える牙』

ホームページを新しく移転し、しばらくぶりに雑記帳を再開する。
しばらくはこの間読んできた本の感想に使いたい。

今日は乃南アサ『凍える牙』(新潮社)を読んだ。
いかにも昨今の直木賞受賞作という印象だ。警察の男社会に放り込まれた女性刑事の日常を追いながらも、最後は疾風というオオカミ犬に焦点を移していく展開のうまさには、読者を引き込んでいく作者の意気込みが感じられる。
ここしばらくゆっくりと出来るので、古典を中心に読書をすすめていきたい。
今読まなきゃいつ読むんだ!!

『二十歳の原点』〜現在へ

日常生活に去来する様々な雑感を今一度客体視する必要がある。
インターネットの普及で感情的な直接表現が幅をきかせ、自分で自分の感情をコントロール出来ない時代に我々は入ってきている。何気ない自分の感情を吐露することで、自らに在する差別や汚濁を見つめ直していきたい。
もうすでに30数年前、立命館大学の学生であった高野悦子さんの日記(『二十歳の原点』)から引用してみたい。

このノートを書くことの意味ーー
これまでは、このノートこそ唯一の私であると思っていたから、誰かにこれをみせ、すべてみてもらって安楽を得ようかと、何度か思った。しかし、今日ぼんやりとしていたとき、このノートを燃やそうという考えが浮かんだ。すべてを忘却の彼方へ追いやろうとした。以前には、燃やしてしまったら私の存在が一切なくなってしまうようで、恐ろしくて、こんな考えは思いつかなかった。
現在を生きているものにとって、過去は現在に関わっているという点で、はじめて意味をもつものである。燃やしたところで私が無くなるのではない。記述という過去がなくなるだけだ。燃やしてしまってなくなるような言葉はあっても何の意味もなさない。
このノートが私であるということは一面真実である。このノートがもつ真実は、真白な横線の上に私のなげかけた言葉が集約的に私を語っているからである。それは真の自己に近いものとなっているにちがいない。言葉は書いた瞬間に過去のものとなっている。それがそれとして意味をもつのは、現在に連なっているからであるが、「現在の私」は絶えず変化しつつ現在の中、未来の中にあるのだ。

彼女はこの4日後に鉄道自殺により尊い命を落としている。彼女の示唆するところの現在を規定する過去への視座は、個人の言葉すらも記号化されていく現在の中でこそ大切なものであると考える。

『コンピュータと教育』

佐伯胖著『コンピュータと教育』(岩波新書 1986)を読む。
コンピュータの技術うんぬんというよりは、コンピュータの思考様式と人間の思考パターンの差異を指摘する中で、改めて古くさい教育論を展開するものであった。氏は認知心理学が専門のようだが、私はこの手の大きく教育学に分類されるような分野が苦手である。言語学や論理学、発達心理学などのテキストをみるだけで鳥肌が立ってしまう。

一年がやっと終わった。私にとって長い一年であった。

『浅の川暮色』

五木寛之短編集『浅の川暮色』(文春文庫)を読み返す。
表題作は金沢を舞台としたものである。私も学生時分にゼミ合宿で金沢を訪れたが、金沢は観光マップに載っているところよりも、路地裏のごみごみした所や、塀に挟まれたひょんな抜け道の方が面白かった。そのような金沢の町を思い浮かべながら読むと興味深い。