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『教科書でおぼえた名詩』

文春ネスコ編『教科書でおぼえた名詩』(文春ネスコ 1997)をぱらぱら読む。
長田弘氏の『世界は一冊の本』という詩を読みたくて手に取ってみた。タイトルにある通り、昭和20年代から平成8年までの中学・高校の国語の教科書から、誰でも一度は耳にしたことのあるなつかしの詩歌が百数十編収録されている。
その中で、北原白秋の『頑是ない歌』の一節が印象に残った。心を込めてキーボードで活字を拾ってみたい。大学を卒業して十数年になるが、前へ前へと進み、仕事と家族を持ち、地盤を築いてきた自分自身の境遇を、もう一人の自分が労いと諦めの入り交じった視線で眺めている。感想になっていないが、なんかそんな感じがする。(ちょっと眠いか)

今では女房子供持ち
思へば遠く来たもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど

生きてゆくのであらうけど
遠く経て来た日や夜の
あんまりこんなにこひしゆては
なんだか自信が持てないよ。

さりとて生きてゆく限り
結局我ン張る僕の性質
と思へばなんだか我ながら
いたはしいよなものですよ

考へてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして
どうにかやつてはゆくのでせう

考へてみれば簡単だ
畢竟意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさへすればよいのだと

『バカはバカなりに』

細田吉郎『バカはバカなりに』(ごま書房 2006)を読む。
中卒でニートややくざまで経験した著者が、心機一転20代半ばで事業主となり、ビジネスの面白さや苦さを余すところなく語るビジネス書となっている。著者は埼玉出身で、高校を1日半で中退し、様々なアルバイトを経験する中で商売の面白さを感じ、21歳の若さで中古車販売会社を成立し、執筆当時は順調に会社を軌道に乗せている。

手にとった時は、単なる自費出版の自叙伝かと思ったが、自身の会社を興すまでの経緯はほとんど省かれ、社長となった時の心構えや作法、人付き合い金付き合いについて丁寧に語られている。現在の私自身の境遇とは全く異なるものだったので、逆に気楽な気持ちで楽しく読むことができた。

『それぞれの芥川賞 直木賞』

豊田健次『それぞれの芥川賞 直木賞』(文春新書 2004)を読む。
著者は、長らく「週刊文春」「文學界」「オール讀物」などの編集長を担当し、多くの新人作家や売れっ子作家を手がけた敏腕の編集者である。その著者が、第70回(1973年)芥川賞を受賞した野呂邦暢氏と、第83回(1980年)直木賞を受賞した向田邦子さんの二人の担当者として、受賞までの二人三脚の歩みがまとめられている。
しかし、当時の手紙や書評をだだ連ねただけで、現役当時の思い出を振り返るといった社内報の穴埋めの連載のような中身であった。時間の無駄かと思ったが、読みやすい文章だったので、一気に読んでしまった。
この本にめげず、今冬、少し芥川賞作家、直木賞作家の作品に触れてみたいと思う。

『若者の法則』

香山リカ『若者の法則』(岩波新書 2002)を読む。
「いまどきの若者は……」という愚痴は、はるか古来より「大人」の口を出たセリフである。しかし、携帯電話やインターネットの普及でこれまでは大きく異なった「若者」が出現してきたと著者は指摘する。

著者は最近の若者を、「確かな自分をつかみたい」「どこかでだれかとつながりたい」「まず見かけや形で示してほしい」「関係ないことまでかまっちゃいられない」「似たものどうしでなごみたい」「いつかはリスペクトしたい、されたい」の6つの法則で説明する。どれも著者の大学教員としての実体験に基づくものであり、「なるほど」と頷いてしまうものが多かった。
その中で、「先生」という項目が面白かった。著書の内容を以下少しまとめてみた。

今の若者は学校の先生などに関心がないのかと言うと、そんなことはなく、先生に関するウワサ話は大好きであるという。「○○先生っておしゃれだよね」とか、「あの先生、授業のときってけっこう笑顔がかわいいよね」など、何気ないウワサを延々と語り合っては、笑ったりびっくりしたりしている。若者にとって「先生」というのは、自分と密接にして特殊な関係にある。先生は自分に何かを定期的に教えてくれる大人であり、さらには成績や進級、卒業などを決定する権利を持つ大人である。今の若者たちにとって、そういう関係性のはっきりした大人というのは、決して多くはない。親戚づき合いも減り、町内会長や近所のご意見番といった、役割の明確な大人も身のまわりから姿を消しつつある。親でさえ、「友だち親子」と言われるように自分と地続きの人間になってしまった。

精神医学の中でも、これを「世代間境界の喪失」と呼んで問題視する動きがあるようだが、「だれでも友だち」という人間関係は、一見、風通しがよいものに見えるが、実は若者たちはその中で、自分をうまく位置づけることができず、いつまでも自分が何者かを定められずにいるのではないか、というのだ。そういう意味で、関係が見やすくはっきりしている先生というのは、若者にとっては分かりやすく安心できる存在なのだろう。

もちろん、当の先生たちにとっては、学生が授業や研究の内容についてではなく、自分のウワサ話を語っているというのはあまり愉快ではないだろう。ただ彼らはそうやって、自分と密接な関係があり、ちょっとだけ自分に影響力を持つ大人について語る喜びを満たしているのである。「先生のくせに朝までカラオケに行っちゃったらしいよ」などと、「○○のくせに」というフレーズを堂々と使ってもよい大人は、もしかしたら彼らには先生しかいないのかもしれないのだ。

だから先生というものは、十分に若者たちがウワサの対象にしたくなるようなユニークな言動やファッションをして見せる必要も時にはあると思う。もちろん自分が持っているちょっとした力を悪用したセクハラなど、ダークなウワサになるようなことをするのは言語道断。そして、「あの先生ってさ」とチャーミングなウワサが十分、語られるような先生なら、若者はその授業や研究にも関心を持ってくれるはずなのだ。今の若者にとっては数少ない関係性のはっきりした大人である先生。その役割は意外に大きいが、それを自覚している先生は残念ながらあまり多くない。

『近頃の若者はなぜダメなのか』

原田曜平『近頃の若者はなぜダメなのか:「携帯世代と「新村社会」』(光文社新書 2010)を読む。
中学高校の頃からケータイと慣れ親しんできた若者世代の人間関係や社会観を、独断や偏見を廃し、1000人の若者へのインタビュー記事を基に丁寧に描き出す。
ブログやSNSによって