投稿者「heavysnow」のアーカイブ

友人に宛てたメール

久々の連休は家で静養しています。風邪薬を飲んでずっと寝ていました。
しかし中間テストが控えていて試験問題が全く出来ていないので、内心焦っています。

「学級崩壊」に関心があるんですね。
先日、尾崎ムゲンという関西大学の教員の『日本の教育改革』という本を買ってきました。
学生時代に講演会に読んだ人です。中公新書で八月に出たばっかりの本です。
ぱらぱら眺めてみただけですが、「学級崩壊」という現象について予見をしたような内容です。
ざっと結論だけいうならば、これまでの近代公教育は工業化社会の底辺を担うための合理的な労働力養成と、子供個人の外に価値を認め、個人を「解放」していくという「産業化」「個人主義化」の折衷であったのが、八〇年代後半から現在にかけて教育は「脱産業化」と子供個人に価値を認め「自己実現」を支えるシステムに改変されていく。
今はその再編途中にあり、目標を強制しない教育の方は実現したが、子供個人に価値を認める教育は実現していない。ゆえに構造的に学校崩壊が起こりうるという内容です。

しかし現実の高校生は僕から言わせるとただ甘えているだけです。
体罰がほぼ完全に禁止され、学校でも家庭でも叱られることなくぬくぬくと育っている幼稚園の生徒と一緒です。
と、訳の分からない愚痴になってしまいましたが、毎日ストレスを抱えているので、最近私も思考回路がおかしくなっています。まともにものを考えられなくなっています。

友人に宛てたメール

早稲田大学はどのような状況でしょうか。
早稲田祭は今年も中止のようですね。早稲田を離れると大学内の状況は全く伝わってきません。
やはり大事なことはメールにもありましたが、来年以降の自分の抱えている疑問と現在の早稲田大学の学生としての主体とをつき合わせながら発言していくことだと思います。
私は結局去年うまくいきませんでしたが、残り半年というのは短いようで結構長いものです。
これからの半年が大切だと思います。
半年の間に自分の気持ちの中で整理しておくべきこと、そしてそれを何らかの形で具現化させておくべきことたくさんあります。
3月31日までは学生です。
周りの仲間と相談してプラスアルファを自分のものにしてください。

私の方は、高校教員になってみて半年が経ちましたが、最近実感するのは、教育についていろいろ考えても、結局教員は生徒の日常のことに振り回されてしまいます。
しかし日常生活の中での生徒との接点でしか教育はなしえないし、そこから逃げては駄目だということです。
教育について概観し、批判することが生徒との交流から逃げることになるのではと、前からすれば思いっきり日和った考えをもつようになりました。
大学時代、奥島の授業に拡声器を片手に突っ込んでいった私ですが、歳のせいでしょうか、考えも変わりました。
放課後に生徒と駐車場でワンバウンドサッカーをやっているときが一番充実していると感じるようになりました。
先日も授業中保健室に行った生徒が手にジャージを丸めて走って帰ってくるので、どうしたと訊いたところ、校舎に迷いこんで出られなくなって弱っていたスズメを持ってきました。
「せんせーい、どうしよう、どうしよう」と困っているので、結局スズメさんには授業終わるまで教卓の上で休んでもらいました。
その後生徒とスズメのことについて真剣に話し合っている自分にふと気づいてしまいました。

徒然なるままに

[http://www.mainichi.co.jp/news/journal/photojournal/archive/199906/21/21-07.html]
今日はあす行う古典のテストを作成した。出題範囲は今昔物語と徒然草である。一年生なので基本的な助動詞や歴史的仮名遣いなどを訊ねる問題だ。文法問題は作るのは簡単だが、解くのは面倒だ。
またついこのあいだ毎日新聞に法政大学の学生の記事が出ていた。学生がどんどん発言をしなくなっていく中でめずらしい貴重な存在だ。

1998・8・15反靖国闘争総括

 98年の靖国神社への情宣活動は私にとって3回目の行動であった。
 約4年前の95年の5月に私の通う大学で現在自由党の議員である小池百合子の講演会があった。そこで小池百合子は「戦後生まれに戦争責任なんてない」と壇上で発言を行い、物議を醸す事件があった。
 私自身はそれまで過去の日本が犯した戦争は侵略戦争以外何物でもないと習ってきたが、いざ戦後生まれの自分の立場に照らして考えるという経験は無かった。それまで私自身も「戦争責任」と問われても関係ないと考えていた。しかし過去の戦争の結果生まれた戦後民主主義の下に育ち、戦後憲法の庇護において生活する自分の今の立場を考えたとき、現在という時間の中で、再び戦争を引き起こさないための行動を自分の立場性において行っていかなければならない。繰り返される核実験やイラクへの米軍の軍事行動など、新聞やテレビのニュースとして消費するのではなく、私自身が主権者の一人として責任をもって反対の声を上げていかねばならない。そこで私は95年からまず自分にとっての戦争責任をとらえ直すという作業の中で、靖国神社に向き合うことになった。
 99年の1月に入って自民党と自由党の連立政権が成立し、「周辺事態」の際の米軍への「後方支援」や、ガイドライン関連法案の早期成立が狙われ、いよいよ日本も「戦争ができる国」へと変わろうとしている。「戦争責任なんてない」と発言した小池百合子が今自由党議員として、「国際貢献」の美名の下での「軍事大国化」を推進しているという事実をふり返る必要がある。今こそアジアへの侵略戦争、戦前国家総動員体制を支えてしまったという現実を直視ししていかねばならない。そのために靖国神社のビラ巻き行動は単なる過去50年前の歴史認識の埋め合わせではなく、再び進んでいるファシズムへ体制へのアンチであり、これから来る〈戦前〉情況に抗する反戦運動の基軸として据えられなければならない。
 私たちはこれからどのように過去の侵略戦争を美化する「靖国システム」に向き合っていかねばならないのか。それは私たち戦後生まれの一人の市民、学生、労働者としてそれぞれの立場に根差した反戦運動の行動の過程に求められるものである。
 最後に戦前に治安維持法で捕まり獄中生活を強いられながらも戦争体制国家に厳しい批判の声を上げてきた戸坂潤の言葉でもって、99年以降の反靖国行動へとつなげていきたい。

 で問題は、諸君自身の「自分」とは何かということにある。
 そこが話の分れ目だ。

駒寮の現状

駒寮の現状

2・23の読売新聞の記事を参照ください。

現在裁判斗争に舞台は移っている。しかし97年度もキャンパスプラザ‐CCCL‐の予算は文部省より付いており、アリバイ的に予算を使うため、駒寮の一部が取り壊される危惧は残る。

〓〓〓駒寮委員会と自治会の結びつき〓〓〓

 三鷹寮が整備されておらず、なし崩し的に駒寮存続もありうるのではないか。しかしハードだけでなくソフト(24時間学生による自主管理という内実)を守っていかねばならない。今後の東大生の能力が試される。

 翻ってこのPbを早稲田に照らしてみたとき、教課分離に基づいた新学館反対というスローガンは必然的にでは現キャンパス内で学生の自主管理能力が問われるところである。新学館では自由に自主的に活動できないという文句は、では地下で自主的に管理し、学生内部での話し合いの中で自由な空間を創っていけるのか。非常に難しい。キビシー。
 今後地下部分では新学館着工開始、完成後まで大きなメルクは学ヒを除けば少なくなるであろう。新学館反対の声をあげていくだけなのか。冬のビラにもあった通り、大学当局の企業への就職予備校と化したカリキュラム再編(パソコンの導入、専門科目の重点化)、学生の厚生補導的な「課外活動」、「教育プログラム」に学生の自主・自治活動の理念を如何に対置していくのか。そもそも学生の自主活動に今更改まって論述すべき理念が果たしてあるのか。(それを言ったらおしまいか?)

駒寮のPbも24時間キャンパスがオープンで学生の自主管理であるが、ではそこに

 私の今考えていることは相手の土俵にのった議論ではなくてもいいということだ。つまりうまく言えないが、相手(権力、大学当局、資本)の攻撃に対して真っ向から批判していく事は大事だが、ベトナム戦争下でアメリカ政府のやり方に対して、反戦ソング、デモ、ヒッピーなどで「抵抗」を生んでいったように、大学当局の資本べったりの「学問、知のあり方」に対して、抵抗の手段として文学、音楽、劇といった文化、カウンターカルチャーを創っていけばいいのか。ここで抵抗の歯止めを創るために、連帯の絆をつくるために「歌」があればいいなと思うときがある。