駒寮の現状

駒寮の現状

2・23の読売新聞の記事を参照ください。

現在裁判斗争に舞台は移っている。しかし97年度もキャンパスプラザ‐CCCL‐の予算は文部省より付いており、アリバイ的に予算を使うため、駒寮の一部が取り壊される危惧は残る。

〓〓〓駒寮委員会と自治会の結びつき〓〓〓

 三鷹寮が整備されておらず、なし崩し的に駒寮存続もありうるのではないか。しかしハードだけでなくソフト(24時間学生による自主管理という内実)を守っていかねばならない。今後の東大生の能力が試される。

 翻ってこのPbを早稲田に照らしてみたとき、教課分離に基づいた新学館反対というスローガンは必然的にでは現キャンパス内で学生の自主管理能力が問われるところである。新学館では自由に自主的に活動できないという文句は、では地下で自主的に管理し、学生内部での話し合いの中で自由な空間を創っていけるのか。非常に難しい。キビシー。
 今後地下部分では新学館着工開始、完成後まで大きなメルクは学ヒを除けば少なくなるであろう。新学館反対の声をあげていくだけなのか。冬のビラにもあった通り、大学当局の企業への就職予備校と化したカリキュラム再編(パソコンの導入、専門科目の重点化)、学生の厚生補導的な「課外活動」、「教育プログラム」に学生の自主・自治活動の理念を如何に対置していくのか。そもそも学生の自主活動に今更改まって論述すべき理念が果たしてあるのか。(それを言ったらおしまいか?)

駒寮のPbも24時間キャンパスがオープンで学生の自主管理であるが、ではそこに

 私の今考えていることは相手の土俵にのった議論ではなくてもいいということだ。つまりうまく言えないが、相手(権力、大学当局、資本)の攻撃に対して真っ向から批判していく事は大事だが、ベトナム戦争下でアメリカ政府のやり方に対して、反戦ソング、デモ、ヒッピーなどで「抵抗」を生んでいったように、大学当局の資本べったりの「学問、知のあり方」に対して、抵抗の手段として文学、音楽、劇といった文化、カウンターカルチャーを創っていけばいいのか。ここで抵抗の歯止めを創るために、連帯の絆をつくるために「歌」があればいいなと思うときがある。