投稿者「heavysnow」のアーカイブ

『情報文明の日本モデル』

坂村健『情報文明の日本モデル:TRONが拓く次世代IT戦略』(PHP新書 2001)を読む。
月刊誌や雑誌に寄稿した文章を集めたもので論旨に一貫性はないが、日本で唯一OS開発に取り組む著者ゆえに、マイクロソフト独占の危機的現状やアジア系言語を軽視した文字コードに対する主張は熱い。
アメリカが国家的戦略でPCベースの常時接続高速回線のインフラ整備に取り組み、ヨーロッパが双方向デジタルテレビの普及に力を入れている中で、著者はPCに依存しない携帯電話などのモバイル機器に日本の将来のビジネスモデルを託す。そして漢字文化圏を代表する形で、17万字扱える「超漢字」という日本発のOSを提唱する。実際にトロンがどのような形で組み込まれていくのか明言していないが、中国や台湾、そして非ヨーロッパ系言語文化圏の大学や研究所との実質的な連携が求められる時期に来ていることは確かであろう。

主題とは離れるが、著者の次の言葉が気になった。

アメリカの長所は、社会全体を「面」でとらえ、個人という「点」以上に「面」を動かすことに意を注ぐところだ。そのために、理念をはっきりさせ、その推進のために法律をつくり、必要であれば補助金を出して、徹底的に実現させる。

ちょうど今日の東京新聞夕刊に、ニューヨーク市で同性愛者限定の公立高校が開校するとのニュースが載っていた。普通の高校ではいじめの対象となってしまうのが背景にあるのだという。これこそ、坂村氏の指摘するアメリカ人の「点」ではなく、「面」で社会を捉えようとする姿勢の端的な例であろう。これが日本だとある一つの「点」のみを捉え全体を推し量ろうとするであろう。どちらがよいと単純には言えないが、日米の考え方の違いを押さえていくための一つの切り口となろう。

『eメールの達人になる』

村上龍『eメールの達人になる』(集英社新書 2001)を読む。
簡潔・明瞭が求められるeメールにおいて、曖昧な日本語を如何にして使っていくのか、実際に村上氏がやり取りしたメールからその手法に解説を加えている。例えば、伝達や事務連絡といった用件は、要点を簡略に伝えることを心掛けるだけでよい。しかし、指示や依頼の際にはシンプルさが求められる一方で、きわめて日本的な謙譲のマナーを守る必要が生じる。確かに日本語のメールでは「〜して下さい」ではあまりに語調が強過ぎる。「〜していただくと助かります」「〜ではないでしょうか」といったように自分の意見を押さえるような言い回しがビジネスの世界では必要だ。

また文章構成においても、高校までの小論文指導では習わないような工夫を紹介している。例えば、日本語の文章でも箇条書きや罫線、「●」や「:」「>(引用符)」などの記号を効果的に用いることで見た目がすっきりする。一方で「”」「’」「−」「/」「@」などのアルファベットのための記号は日本語と入り交じることで逆に文章を分かりにくくする。著者自身も「コミュニケーションは本質的に非常に困難なものだという自覚が必要ではないか」と述べているように、まだまだメール文化も緒についたばかりであり、こうしたルールも過渡的なものであろう。

『ホワイトアウト』

真保裕一『ホワイトアウト』(新潮文庫 1998)を読む。
少し時間的に余裕があるのでサスペンス小説をと思い手に取ってみた。文庫でも628ページもある長編で、最後のページを繰るまでまるまる2日間かかってしまった。織田裕二主演の映画として有名な作品であるが、原作も場面の切り替えがうまくテンポをつくっており一気に読んでしまった。奥只見ダムを舞台にしており、地図を片手にダムの位置など確認しながら読んでいった。昨夏、奥只見の下流に位置する田子倉ダムにバイクで出掛けたので、夏の山の光景は容易に頭に思い描けるのだが、冬山の積雪や吹雪は想像すらすることが出来ない。しかし真保氏のこの作品における描写は微に入り細に穿っており、雪山の様子がリアルに読者に伝わってきた。直木賞の声も高いようだが、受賞はそう遠いことではないだろう。

小山市花火大会

本日は小山市の花火大会に出掛けた。
打ち上げ場所から数十メートルしか離れていないところで見ていたので、花火の爆発時の音圧を感じることが出来た。また燃え滓がちょうど私のGパンの上に降って来て大騒ぎであった(笑) 白鴎大学のすぐ脇で見ていたのだが、壁に音が反射して爆弾のような轟音が響き、遠くで見るのとはまた違った迫力があった。
多数の若者がビール片手に歓楽する、夏の風物詩として定番のイベントであるが、花火というものはわずか5秒あまりの一瞬の芸術であり、失敗は許されない「職人」の世界である。世の中に「職人」と称される者は多数いるが、花火職人ほどその作品の全てが瞬時に数万の観客の目にあからさまにされる者はいないであろう。

『「超」整理法3』

野口悠紀雄『「超」整理法3:とりあえず捨てる技術』(中公新書 1999)を読む。
『「超」整理法』と発想は同じで時間軸でフローな情報とストックな情報を峻別し、フローな情報はフローとして管理していこうとするものだ。その中で特に著者の次の言葉が耳に痛かった。「整理」という発想自体突き詰めていけば危険な発想に繋がるものだが、最低限の書類管理は各自の自覚に求められるものであろう。

「きれいな机」がもたらす精神衛生上の効果は、驚くべきものだ。邪魔ものが何も置いていない空間は、健全な発想を自由に展開するために、必要不可欠である。書斎や研究室は散らかっていてもよいのだが、机の上はきれいに維持することが必要だ。