投稿者「heavysnow」のアーカイブ

『遠野物語』

柳田国男『遠野物語』(新潮文庫1973)をかいつまんで読む。
「オシラサマ」や「ザシキワラシ」「川童」など、今夏のツーリングの際に、遠野の駅の観光客向けの語り部の女性から拝聴した話を読んでみた。昔話と言っても、当時柳田と交遊のあった佐々木喜善の祖母の話であったり、具体的な地名が出て来たりと、江戸末期から明治にかけての田舎のリアルな生活が舞台となっているので、神話と現実が入り交じった妙な感覚を覚えた。

『天皇の影法師』

猪瀬直樹『天皇の影法師』(新潮文庫1983)を読む。
大正天皇が亡くなってから新しい「昭和」の元号が生まれてくるまでのドラマを克明に追ったノンフィクションである。一説によると大正天皇死去すぐに、東京日日新聞社(現毎日新聞社)が「光文」といち早く報じてしまったために、漏洩という事実を隠すために元号を変えたということだが、真相は闇の中らしい。
猪瀬氏は鴎外が死の直前まで元号に情熱を傾けて取り組んでいたことに着目している。私にとって鴎外と元号とは少々意外な組み合わせである。しかし鴎外は晩年『混沌』という作品のなかで次のように述べている。

今の時代では何事にも、Authorityと云ふやうなものが亡くなった。古い物を糊張にして維持しようと思つても駄目である。Authorityを無理に弁護してをつても駄目である。或る物は崩れて行く。色々の物が崩れてゆく。

鴎外は「万世一系」が虚構にすぎないことを知っていた。しかし鴎外は『青年』で展開した「利他的個人主義」という自立した個人が生きて行くための共同体を形成していくには、封建的な社会ではなく、近代的国家という枠組みを作って行かねばならないと考えていた。そして国家という形式を支えるためには諸制度・諸法規とともに、共同的存在の証のための「神話」が必要である。鴎外は国家を機能として捉え、自分自身は信じていない天皇制国家を個人の自立の母体として機能させようとした。そのために元号すらきちんと整備されていない国家を形式において”完成”させようと死の間際まで苦闘したのであった。

『カネと自由と中国人』

森田靖郎『カネと自由と中国人:ポスト天安門世代の価値観』(PHP新書 2001)を読む。
中国というととかく4000年の伝統と、自転車の行き交う紫禁城前で太極拳を行っている姿が脳裏に浮かんでしまうが、そうした幻想を根本からぶち壊される本であった。先日石原都知事が「中国人は無知だからアイヤーと叫んでいる」、松沢神奈川県知事が「外国人はみんなコソ泥だ。石原都知事が取り締まって神奈川県に流れ込んで来ている」と発言し、政治レベルで日本における長期不況に対する不満のはけ口として、不法滞在・不法就労者を犯罪者と同一視し排斥しようとする見方が強まっている。

しかし中国本土での「先富論」による沿岸部と農村部の経済格差や、上海出身者と福建出身者の日本での住み分けなど、現状をきちんと分析していくことで実態が見えてくる。日本政府が「専門技術職の外国人以外は受け入れたくない」という1960年代からの方針を堅持し、外国人労働者を締め出してきた(ドイツの9分の1)ために、蛇頭や工頭などによる密航ビジネスが生まれ、それが暴力団の資金源になっている。また日本にやってくる労働者自身も多額の借金を背負うために、犯罪や金銭トラブルを抱えてしまうと著者は現状を分析する。そこでそうした分析を踏まえ、出稼ぎ目的の外国人労働者のすべてに一定期間日本社会に適応するかどうかを判断するために、労働許可を与えてはどうかと主張している。

『作家・ライター志望者のための電脳文章作法』

菅谷充『作家・ライター志望者のための電脳文章作法』(小学館文庫1999)を読む。
パソコンで文章書くのが当たり前になった現代において、素人が文壇の新人賞を狙うための一応の指南書となっている。創作手法がデジタル化されようが、ネットベースになろうが、肝心の作品のアイデアをひねり出す作業に付け焼き刃的な解決策はなく、産みの苦しみというものは今後も変わらないのであろう。

鵜飼哲氏のコメント

昨日の東京新聞の夕刊に一橋大学大学院教授の鵜飼哲氏のコメントが掲載されていた。
小泉総理のワンフレーズポリティクスに対して「改革、改革、ぶち壊す、と叫ぶだけで何も創造しない。破壊しかしなかった、ある種の新左翼のアジ演説に似ている」とコメントしている。
更に在日韓国・朝鮮・中国人の子弟が国立大学受験資格で差別された問題を取り上げ、大衆迎合主義の行き着く先は、結局は大衆性に欠けた米国型の弱肉強食社会の追従でしかないことを訴えている。