投稿者「heavysnow」のアーカイブ

『0歳児がことばを獲得するとき』

正高信男『0歳児がことばを獲得するとき』(中公新書 1993)を読む。
言語獲得以前の0歳児は母親の口調を真似たり、揺さぶりに反応したり、意味は分からないまでもメロディーとして母親のことばを聞いている点を行動学の視点から統計的に分析している。

『不登校の解法』

団士郎『不登校の解法:家族のシステムとは何か』(文春新書 2000)を読む。
不登校の生徒を抱えた家族を個々にカウンセラーの立場から分析を加えている。不登校は主に学校だけにその原因を求めがちであるが、その生徒が家族の中でどのような立場におり、どのような役割を期待されているか、複雑に絡み合った家族同士の思惑を解きほぐしてみることでうまく解決するケースがある。しかし著者は問題には必ず原因があるとの命題のもと、原因を突き詰めていくことは拒否する。原因を突き詰めていくことが必ずしもよい解決法を導かないことを知っているからだ。

『死ぬまでにしたい10のこと』

イザベル・コヘット監督脚本『死ぬまでにしたい10のこと』(2003 松竹)を観に行った。
制作者の多くがスペイン人で、俳優はカナダ人やアメリカ人という異色の映画である。余命3ヶ月と診断された23歳の女性の心理を巧みに描いていた。
解説者風に述べるならば、死を前にすることで人間は初めて自らの生の目的を問い始める。しかし将来の夢を夢想する前に17歳で結婚し、親の庭先にあるトレーラーの中で暮らす女性にとって、残された人生でやり残したことは「家族でビーチへ行く」ことや「爪とヘアースタイルを変える」など容易く実現可能なものしかない。男である私はこの映画の主題をそうした広い世界を知ることが出来なかった女性の悲劇であると捉えた。しかし女性の見方はかなり違ったものになるだろう。

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『恐竜はなぜ滅んだか』

小畠郁生『恐竜はなぜ滅んだか:中生代のなぞ』(岩波ジュニア新書 1984)を読む。
紙幅の大半を個々の恐竜の特徴の解説に割いているのだが、活字だけだとどうにもその恐竜自体の姿が想像できず、丹念に読めば読むほど消化不良を起こしてしまう。また、20年も前の本ということもあるが、表題でうたっている恐竜絶滅については明らかな検証不足に終わっている。

人類は約200万年地球に存在していますが、かりに恐竜の四分の一を生きるとしてもまだ5000万年の未来があります。ここで人類の現況に眼を向けると、新生代を終わらすか、あるいはそれを続けるかは、まさに知能を発達させた人類の責任だと思います。恐竜とは異なり、私たちは理性によって行動を選択できるからです。

上記のようなまとめで筆を置いているが、果たして「理性」で隕石衝突や超新星爆発を防げるのだろうか。それとも『アルマゲドン』のような科学技術の発達と人類の勇敢な行動を筆者は期待しているのか……。

『わが性と生』

瀬戸内寂聴『わが性と生』(新潮文庫1990)を読む。
出家前は自由奔放に振る舞ってきた彼女ならではの性の体験や見聞をユーモラスに語っている。性に今だ拘泥してしまう出家前の瀬戸内晴美と、すでに性を達観している出家後の瀬戸内寂聴の往復書簡集という形式をとっている。
なかでも紫式部についての話が興味深かった。紫式部は漢学の素養があり、道長の娘の彰子中宮に「白氏文集」の講義をしたと言われているが、同時に彼女は漢文で書かれた閨房術の教典でもある「医心方」房内篇にも精通しており、彰子の性の教育係としても一役買ったと筆者は推測する。四十八手なるものもこの「医心方」房内篇から出ており、一条帝の気を引くために体位から呼吸の整え方から目の付け所まで懇切丁寧に指導したというのだ。これほどスケベな紫式部相手では、当時藤原道長や中宮彰子の敵役であった藤原道隆陣営は清少納言をもっても太刀打ちできないのは理であろう。