投稿者「heavysnow」のアーカイブ

『木橋』

永山則夫『木橋』(河出書房新社 1990)を読む。
4件の射殺事件を起こし死刑となった作者が刑務所で書き記した作品である。つい最近まで日本にあった、そして今も「普通の社会」のすぐ隣にある生活をリアルに描き出す。そして社会の底辺で底なし沼的な差別が続いていく現実を次のように記す。

この土堤に、N少年を座らせてしまったのは、その空き腹だけのためではなかった。この部落の人々への同情とも、憐憫ともつかない思いが、自分自身の悔しさとたたかっていた。
――俺より下がいた。
というより何かしら言いようのない自己確認と反撥とが争って、思惑を複雑に混乱させてゆくようであった。
しかし、それがどこからくる反撥であり、どこへ向かう反撥であるのか――。それは得体の知れないものだった。丁度その土堤が堤防としてあるのは確かだが、これがどこからN少年のいる場所につながり、どこまでつづいているのかがはっきりしなかったように――。
目前の部落の朝鮮人たちが、どうしてこの河の内側に住むことになったのか、まるで肩を寄せ合い犇めき合いながら生活するようになったのか――分からないままに、石を投げつけ、あげくの果てには黙ってその部落の貧困を極めた姿を見ているしか、N少年には能がなかった。そして、現在の自分自身がどこにいるのか、――不明のままに、土堤の外側の世間と内側の部落とを見比べるように眺めていた。

『砂の女』

安部公房『砂の女』(新潮社 1962)を読む。
砂の穴に落ちた男と、砂の中に住む女の不思議な共同生活を描く。穴の中という奇妙な空間で男は自らの存在理由を求める思考を繰り返すのだが、男女関係、労働の価値、社会の希薄化など古典的なそして現代的なテーマが伏線として流れており面白かった。阿部氏ならではの淡々とした散文調の詩的表現も面白い。彼は男の射精の瞬間を次のように描く。

無数の化石の層をつみ重ね、のりこえてきた、人類のけいれん……ダイノソアの牙も、氷河の壁も、絶叫し、狂喜して進む、この生殖の推進機の行く手をはばむことは出来なかった……やがて、身もだえしながら振りしぼる、白子の打ち上げ花火……無限の闇をつらぬいて、ほとばしる、流星群……錆びた蜜柑色の星……灰汁の合唱……
そのきらめきも、ふいに尾をひいて消えてしまい……男の尻を叩いて、はげましてくれる女の手も、もう役には立たない。女の股をめがけて這い出していった、神経も、霜にうたれたひげ根のように、ちりちりに枯れ、指は、貝の肉のあいだで、萎えつきる。

また作中人物をして次のように言わしめる。

労働を越える道は、労働を通じて以外にはありません。労働自体に価値があるのではなく、労働によって、労働をのりこえる……その自己否定のエネルギーこそ、真の労働の価値なのです。

この言葉の意味するところは私にはよく分からないが、60年代の高度成長期における労働の機械化、疎外化の一端が伺い知れる。労働に価値を置くべきはずが、

「日本人の自己表現の文体」

本日の東京新聞の夕刊に大江健三郎氏の外国特派員協会での「日本人の自己表現の文体」と題する講演会の模様が掲載されていた。
その中で大江氏は「参院選が終わったら教育基本法が改正されると思う。それから後は平和の文化は日本にはなく、戦争への運動だけが残る。その大きな危機に対し、お母さん方や若者が反対する運動をつくれば、日本人がまじめに平和を考える人間だとアジアやヨーロッパの人に考えてもらい、世界の文化会議に参加出来る状態になる」と、今後の平和運動の基底に憲法と教育基本法を尊重する姿勢が必要であると指摘し、「今も心の中では、教育基本法を守るデモの先頭に立っている」と語ったという。
憲法が過解釈によって骨抜きにされた以上、教基法の理念を守っていくという学生運動の原点に返っていくことは大切であろう。しかし教育基本法を反戦の原点に持ってくる前に、より一層現在の現場での教基法の理念の共有化が求められる。