投稿者「heavysnow」のアーカイブ

『子どもが子どもだったころ』

毛利子来・橋本治『子どもが子どもだったころ』(集英社 1998)を読む。
毛利氏は、ピアジェの発達心理学が戦後日本の教育界に入ってきて以来、子どもは未熟であるがゆえに大人による指導教育によって成熟していく必要があるという近代義務教育制度の行き過ぎが子どもから子どもの世界を奪ったと指摘する。また、ルソー以来連綿と流れる「子どもの発見」なる動きを警戒する。最近「子どもは無限の可能性を持った存在」だとする向きがあるが、これは「子ども」を尊重するようでいて、かえって人間として差異化し、「大人」の支配の下に置いてしまうのではないかと危惧する。そして「子ども」と「大人」の区別はアイマイにしておいた方がよいと指摘する。

『イノセンス』

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押井守監督アニメ映画『イノセンス』(2004 東宝)を岩井へ観に行った。
前作の『甲殻機動隊』の続編なのだが、前作の内容をすっかり忘れてしまっていたので、主人公の経歴など話の前提がいまいち飲み込めなかった。人間の思考すらも電脳化され、操る身体はいくらでも替えがきいてしまうサイボーグ人間がコンピュータ制御された人形とその存在意義を巡ってやり合うという近未来の世界が話の舞台である。人間の思考そのものがコンピュータの情報に還元されてしまうという設定は古くは手塚治虫の『火の鳥』や、鈴木光司の『バースディ』辺りでもあったが、今後形を変えながら使われ続けるテーマであろう。

『蹴りたい背中』『蛇にピアス』

かなり前に購入して投げ散らかしてあった文芸春秋2004年3月号の綿矢りさ『蹴りたい背中』、金原ひとみ『蛇にピアス』を読んだ。
『蹴りたい〜』の方は小中学校に比べ希薄化していく高校のクラス内の友人関係と寂しさを許容できない多感な自我とのすれ違いが面白く丁寧に描かれていた。たしかに高校ともなると、クラブの人間関係に比べクラスは少し無理をしないと、10分間休みや昼休みの妙な寂しさ、気まずさから逃れられなかったと覚えている。図書室やベランダなどクラスから少しでも離れることのできる校舎内のデッドスペースは高校にこそ必要であろうと考えながら読み進めていった。
『蛇にピアス』の方はちょうど20年前に発表された山田詠美さんの『ソウルミュージックラバーズオンリー』を彷彿させる。体にピアスの穴を開けても、入れ墨をいれても、また体を重ねても自分の存在が確認できない10代後半の不安が作品を貫いている。『ソウルミュージック〜』の頃はドラッグや不倫など「反社会的」な行為によってしか自己の居場所を確かめられない社会の窮屈さがモチーフであったが、『蛇にピアス』ではそうしたドラッグやセックスもアイデンティティの確認作業にならない。「自分って何?」といった自分探しがいよいよ難しくなってきた現在の社会を嫌が上でも思い知らされる。ちょうど今村上龍の『13歳のハローワーク』という中学生向けの職業選択のマニュアル本が話題を呼んでいるが、それなどは『蛇にピアス』とちょうど不安回避の裏返しであろう。