『文鳥・夢十夜』

夏目漱石『文鳥・夢十夜』(新潮文庫)を読んだ。
前後期三部作と比べて内容的には浅い。三好行雄氏の解説によると、『夢十夜』はフロイト的な〈無意識〉の観点から分析が加えられるそうだが、あまり面白そうな研究ではなさそうだ。多分研究論文も中途半端なものになっているのだろう。

暇を見つける最良の方法は、規則正しく仕事をすることである。

今日は埼玉武専に戸田へ出掛けた。今年度は本当に忙しくて、恥ずかしながら最初にして最後の参加となった。4月からはきちんと出なくてはダメだ。

現在メルマガで「20世紀の名言」というのを読んでいるが、昨日配信された名言が印象に残ったので引用してみたい。
リズム良い生活習慣から余裕というのは生まれてくるのだろう。やることが多いのだから、より生活を正していく必要がある。うん。

暇を見つける最良の方法は、規則正しく仕事をすることである。
― ヒルティ ―(スイス哲学者)

ハーレクイン

ハーレクインを何冊か買ってきた。
昨日からサンドラ・マートン『抱かれていたい』(ハーレクインロマンス)を読んでいる。
しかし最初の数ページを読んだだけで、既に展開が読めてしまった。仕事に没頭する女性タリアと大会社社長のローガンとのラブロマンスである。最初は誤解やすれ違いから衝突することも多かったが、お互い意識しあう中で、段々魅かれあっていく。恐らく最後は笑顔でキスを重ねるシーンでのハッピーエンドで終わるのであろう。水戸黄門的な話型が一貫した作品であり、読者も安心して読むことが出来るのであろう。イギリス英語の翻訳調の遠回しな表現も読み進めていく内に情緒すら感じてくる。仕事や家族、自分に対して懸命であるが今一つ幸せを実感することが出来ず、ふとした偶然から白馬の王子様がやってくるという話型が、一部の女性ファンに共感を与えるのであろう。相手の男の表情や言い方、仕草の一つ一つを自らの判断に照らし合わせようとする女性心理が丁寧に描かれている。ただ男の私からすれば一冊でもう十分という感じである。

「泣かないで。タリア……お願いだ」ローガンは優しくタリアの頬の涙をぬぐった。「君はとっても柔らかい。どこもかしこもこんなに柔らかいのかな?」
「お願いよ。放して……」
ローガンは頭を傾け、手がたどったあとを唇で追う。彼はタリアの濡れた頬に、あごに、唇にキスした。タリアの全身が震える。
「やめて、ローガン……」タリアは顔をそらした。ローガンは彼女のあごをとらえ、自分の方に向かせて何度もキスを繰り返した。
タリアの脈が速くなり、体の奥の欲望に火がついた。彼のキスで唇がとろけそうな気がした。
「ローガン……」
「僕に腕を回して」ローガンがささやく。
自分が望んでいることをどうして拒めるだろう? タリアはおずおずと腕を上げ、彼の首に絡ませた。
「僕が欲しいと言ってくれ、タリア」

『ゴキブリの歌』

五木寛之『ゴキブリの歌』(新潮文庫)を十年振りに読み返す。
最近半身浴に凝っていて、お風呂につかりながら読書をしている。ぼーっとしながら活字を追っているので、簡単なエッセーばかり読んでいる。その中で『ゴキブリ〜』の中の次の一節が気になった。

黒人たちだけが集まる下町のナイト・クラブに飛び込んだある白人の話である。彼は人種差別に反対で、黒人の立場に共鳴する進歩的な男だった。その彼が、黒人たちの酒場へ顔を出すと、そこで演奏されている音楽が、どれもこれもハリウッド映画調の甘ったるいポピュラー・ソングばかりなのだ。そこでかれは憤然として隣の黒人の客に言った。
「君たち黒人には、ブルースという偉大な音楽があるではないか。君たちの苦しみ、君たちの悲しみ、君たちの希望と怒りを表現した黒人のブルースをなぜ演奏しないのだ。あんなくだらない白人の音楽はやめたまえ」
するとそれに答えて、隣の黒人の客は言った。
「おれたちは毎日苦しいことやいやなことを忘れたくてこの店に遊びに来てるんだぜ。なんでわざわざ金を払って忘れたいことを思い出さなきゃならんのだ」
いわゆる流行歌とか、そんなふうなものなのだろう。怨を艶に転じて歌う微妙な事情は、その辺の大衆の願望にもとづくものではないかと私は思う。

確か前に書いたと思うが、体制によって差別・抑圧されている側が、体制を支援する文化をありがたく享受するという問題だ。山谷や西成にワルシャワ労働歌とインターがこだましているわけではない。野宿労働者「ホームレス」の多くが長嶋ファンであり、巨人軍ファンである。私は学生時代に精神病院で働いていたが、その時患者さんの口から出る話は美智子さんや雅子さんの結婚の話であった。ソルトレークパラリンピックが昨日開幕したが、日の丸を握りしめて日本選手団は元気よく入場行進していた。

これ以上話がまとまらないが、とにかくパラリンピックに出場している選手の参加出来るという喜びに満ちた笑顔は素敵であった。オリンピックに出場した日本の選手があまり浮かない表情を浮かべていたのに比べて対照的だった。パラリンピックにこそ本来のオリンピックの精神が継承されている。順位にこだわることなく、純粋なスポーツとしてテレビで楽しみたいと思う。