隅田川花火大会

昨日隅田川の花火大会に出掛けてきた。大変込んでいて、ビルや樹木の隙間からかいま見る花火だったがきれいだった。浅草というと、学生時代の空手の大会場所であった台東リバーサイドがあるので、あまりいいイメージはなかったが、少しでもいいポジションをと駅周辺を歩き回ってみると面白かった。

『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』

遥洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(筑摩書房)を読む。
東大でのゼミの奮闘記である。内容的には何もないのだが、何となく「アカデミズム」に触れた気がしてしまうのは、時折上野千鶴子の文章が名言のように挿入されるからだ。

「マルクス主義フェミニストの課題は、資本制下の家父長制という歴史的に固有な相における、女性の抑圧を解明することに向けられる。」
「『愛』とは夫の目的を自分の目的として女性が自分のエネルギーを動員するための、『母性』とは子供の成長を自分の幸福と見なして献身と自己犠牲を女性に慫慂することを通じて女性が自分自身に対してより控えめな要求しかないようにするための、イデオロギー装置であった。」(上野千鶴子『家父長制と資本制』)

それにしても東大のゼミはこれほど忙しいものなのか、恐らく実態は異なるのであろうが、いささかの驚きは隠せない。

青春歌年鑑BEST30 1990

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ツタヤで『青春歌年鑑BEST30 1990』というCDを買ってきた。
高校生当時聞いていた歌ばっかりが並んでいる。JITTERIN’ JINNの「にちようび」とか、高野寛の「虹の都へ」とか、GO-BANG’Sの「あいにきて I.NEED.YOU!」や、光GENJIの歌が非常に懐かしい。ユニコーンの「働く男」や牛若丸三郎太の「勇気のしるし〜リゲインのテーマ〜」が入っている点が、バブル期の時代を象徴していると言わざるをえない。

『トパーズ』

村上龍『トパーズ』(角川書店)を読む。
不認可の風俗産業に従事する女性を主人公にした短編集である。迂遠な文体を用いており、また内容的にも意味の取りづらいところが多く、感想は述べにくい。作者自身一つ一つの作品のディテールよりも雰囲気を重視している。あとがきに次の文章を寄せている。

風俗産業に生きる女の子達は、ある何かを象徴している。
それは女性全体の問題でもあるし、また都市全体のことでもある。
彼女たちは必死になって何を捜しているが、時折それは、男や洋服や宝石やフレンチレストランという具体的な形になって現れ、またいつの間にか消える。
彼女達が捜しているものは、実はそういう具体ではなく、これから先、人類が存続していく上で欠かせない「思想」なのだと思う。
私は、彼女達が捜しているものが、既に失われて二度と戻ってこないものではなく、これからの人類に不可欠でいずれそれは希望に変化するものなのだと、信じている。

ここで作者が提出している「思想」なるものがいかなるものであるのか、即答することは難しい。しかし何となくは分かる気がする。それは「居場所」であろう。自己肯定をすることが難しい都市化の中で、いかに自他共に何らかの形で認められる自己像が形成出来るのか、というテーマではなかろうか。確かに女性はセックスやその他によって身体を嫌が上でも再確認できる。また男性もSMやアナルセックスによって身体レベルでの自己を確認することができる。実はそうした極めて形而下的な段階で発生する自己認識が問われてくる時代がやってくるのではないか、というのが私の感想なのだが、いかがであろうか。

『やがて哀しき外国語』

村上春樹『やがて哀しき外国語』(講談社)を読む。
外国語修得にともなう異文化ギャップ的な話かとずっと思っていたが、読んでみると意外に面白かった。特に小説や文壇雑誌からはなかなか伺えない村上春樹本人について細かく書かれていた。春樹氏のことを単なるフィッツジェラルドが好きな小説家と考えていたが、なかなか鋭い評論をする人である。それは次のような文章からも分かる。

とくに言い訳をしているつもりはなくても、つい「いや実はそれはね……」というような弁解がましいことを口にしている自分にふと気づいて苦い思いをすることは、日常の局面においてしばしばある。一人で好き勝手に生きていられる若いうちはともかく、大人になって広く深く社会とかかわりあい、知らず知らず複雑な人間関係の中に組み込まれると、まったく弁明・釈明なしに生きていくのはほとんど不可能になってくる。その段階でしかるべきエクスキューズをしていかないと現実的な損害を受けることもあるし、誤解されて深く傷つくこともある。(中略)しかしいったんこのような弁明サイクルに入ってしまうと、それこそ何から何まで山羊さん郵便局的な言い訳をしなくてはならない。どこまでが本当にエクスキューズで、どこからが本当には必要ではないエクスキューズかという境目がだんだん分からなくなってくるからだ。

春樹氏はここから小説家としての態度に話を展開させていくのだが、現在の私にとって引っ掛かる一節であった。春樹氏のいうエクスキューズのサイクルが、建前論であったり、プライドに転化したり、「大人」としての振る舞いへと変わっていくのであろう。