『やがて哀しき外国語』

村上春樹『やがて哀しき外国語』(講談社)を読む。
外国語修得にともなう異文化ギャップ的な話かとずっと思っていたが、読んでみると意外に面白かった。特に小説や文壇雑誌からはなかなか伺えない村上春樹本人について細かく書かれていた。春樹氏のことを単なるフィッツジェラルドが好きな小説家と考えていたが、なかなか鋭い評論をする人である。それは次のような文章からも分かる。

とくに言い訳をしているつもりはなくても、つい「いや実はそれはね……」というような弁解がましいことを口にしている自分にふと気づいて苦い思いをすることは、日常の局面においてしばしばある。一人で好き勝手に生きていられる若いうちはともかく、大人になって広く深く社会とかかわりあい、知らず知らず複雑な人間関係の中に組み込まれると、まったく弁明・釈明なしに生きていくのはほとんど不可能になってくる。その段階でしかるべきエクスキューズをしていかないと現実的な損害を受けることもあるし、誤解されて深く傷つくこともある。(中略)しかしいったんこのような弁明サイクルに入ってしまうと、それこそ何から何まで山羊さん郵便局的な言い訳をしなくてはならない。どこまでが本当にエクスキューズで、どこからが本当には必要ではないエクスキューズかという境目がだんだん分からなくなってくるからだ。

春樹氏はここから小説家としての態度に話を展開させていくのだが、現在の私にとって引っ掛かる一節であった。春樹氏のいうエクスキューズのサイクルが、建前論であったり、プライドに転化したり、「大人」としての振る舞いへと変わっていくのであろう。

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