『レベル7』

宮部みゆき『レベル7』(新潮文庫 1993)を読む。
かなりの長編であったが一気に読み進めてしまった。記憶を失った男女の話と行方不明の少女を追う女性の話が並行して語られ、どこで話がつながるのだろうとワクワク思いながら読んでいった。ホテルニュージャパンの火災事件と、入院患者の虐待事件が大きく報じられた宇都宮病院の話が織り込まれており、単なる架空のミステリーには終わっていない。

ラルフ・ネーダー

昨日で懸念の試験が終わり、ほっとする間もなく、近所の公民館へ参院選の投票に行った。
とりあえず社民党の候補に一票を入れておいたが、私の入れる候補は必ず落ちるという不吉なジンクスは今回も守られてしまった。昨夜はどのテレビ局も自民党の「凋落」、民主党の「躍進」を大々的に伝えていたが、よくよく結果を見ると、「革新派」の議席を民主党が確実に食っている左翼陣営総崩れの現状がありありと露呈してきた。6年前の参院選で社民党は改選議席を16議席から5議席に減らし、3年前と今回の2回の選挙で共産党は15議席から4議席まで衰退している。戦争は反対だし、憲法9条の平和主義を変えることには抵抗感がある「リベラル」な層が雪崩を打って、政権交代の受け皿である民主党にとりあえず一票を投じているのだろうか。

今日の東京新聞の夕刊に気になる記事が出ていた。
米大統領選に無党派で立候補している消費者運動家のラルフ・ネーダー氏に共和党支持者から献金が相次いでいるという話だ。ネーダー氏は民主党支持層の票を奪うとされ、ブッシュ支持者が「敵の敵は見方」の論理で献金したとみられている。ネーダー氏は無党派のため、州によっては大統領選の投票用紙に名前が載らない可能性が高い。このため共和党は、オレゴン、フロリダ、ウィスコンシン、ミシガンなど、民主党との接戦州でネーダー氏の名前を載せるべく、規定数の署名を集め支援しているという。パワーゲームに長けているアメリカならではの話とこれまでは笑い飛ばしていたが、小選挙区で二大政党制が根付いてくると、日本でもいつ自民党が戦略として用いるか疑念は拭えない。今後自民党の支持基盤と社民党や共産党の裏のつながりに注意を払う必要がありそうだ。

本日の東京新聞の鎌田慧氏は次のようなコラムを書いている。私は支持したいが、彼ならではのいつまでも変わらない「レトロ」な主張という感想は否定できないであろう。

あと二年もゴーマン首相の勝手放題をみるのはいやだ、という人々は、きっと動きだすであろう。国会のなかばかりが民主主義の場ではない。次の選挙で「国政」を変革できるかどうか、それは国会のそとでの、小政党や少数派労組や地域労組、市民運動などの「連帯」と「共闘」とにかかっている。

再現【総合読解】

再現【総合読解】(細かいところは覚えていないが、だいたいの流れはほぼ変わらないはず。反省としては、駄文の一言に尽きる。)

 著者は「学ぶことの喜びが教育の原点」であると述べ、子どもたちが自由に自己を表現する場が授業であり、教師はその表現を支える演出家に徹するべきだと主張する。
 教師は生徒の困った様子を見るとつい答えを教えすぎてしまう。しかし答えが分かりきった勉強ほどつまらないものはなく、生徒の動機は半減してしまう。真の授業は答えを教える場ではなく、問いを投げかける場である。そしてその問いは教室内で自己完結するものではなく、教室の枠を超えて、人間的、普遍的なテーマにまで掘り下げなければならない。国語であれば、文法や古典常識に拘泥せずに、紫式部の恋愛観や吉田兼好の生きることの苦しみといった生徒が扱いに困ってしまうような生きていくことの悩みを提示していきたい。
 文章の指示内容の理解に終わることなく、文章から浮かび上がっていく世界をまず私が味わい、生徒に迷い込んでいくことの楽しさを伝え、文学を味わうことの楽しみを共有したい。

『「学校が変わる」のウソ ホント:』

岡崎勝『「学校が変わる」のウソ ホント:「新学習指導要領」って何だ?』(風媒社 2001)を読む。
名古屋市の一小学校教員の立場から、現行学習指導要領に基づいた教育改革について私見を加えている。大人と変わらない論理で動いている生徒同士の関係が渦巻く教室の中に、文科省は「子どもの論理」を押しつけようとしている矛盾を著者は指摘している。「差別のない社会」「元気な子ども」と自治体や教育委員会はスローガンを作成するが、「差別のなくならない社会」「悩み、傷つきやすい子ども」にしっかり向き合うことから社会観、教育観は形成されねばならない。

学級が崩壊したらどうするか? 親としては子どもの話を聞くしかありません。それも自分の子どもだけでなく、複数の子どもと親が集まりきちんと現実を認識することからはじめたらいいでしょう。どうも、親も子も、みんな格好つけたがり、自分は無関係だと思いたいのでしょうか。数人の子どもの悪口をいいながら、自分の子どもは関係ないという話が続きます。しかし、学級の中で子どもたちが根本のところで孤立してしまっているから崩壊できるのです。一見すると仲がよさそうに崩壊ごっこをしている子どもたちも、その関係はあいまいで不安定で、いつ自分がいじめられたり排除されるかという不安に恐れているのが普通ではないでしょうか? そんな子どもの心情を理解するということはとても大切です。ボクは何もやさしい言葉をかけてあげようとか、やさしく見守ろうとか、理解すればいいんだ、ということだけをいっているのではありません。逆に、急に子どもの立場に立ってみようとか、子どものストレスを理解しようとするような、子ども主義の態度はかえって良くないのだと思ってすらいます。なぜなら、学級はユートピアではありません。どろどろの人間の関係性から逃れられません。