『理数教育が危ない!』

 筒井勝美『理数教育が危ない!:脱ゆとり教育論』(PHP研究所 1999)を読む。
 九州松下電器でエンジニアとして16年勤務し、その経験を生かして、西日本を中心として小学生中学生対象の塾を設立したという経緯を持つ著者による理数教育の充実の訴えである。前半部では、1977年以降の公立小中学校におけるゆとり教育が成績だけでなく、生徒の心も荒廃させたと、徹底した批判を加える。そして後半部には、「人を思いやる心」を育て、「忍耐力」をつけさせ、さらに「日本の衰退を救う」理数系志望者の育成を掲げる塾の宣伝とお決まりのパターンで展開される。
一つ興味深かったのが、この著者が主宰する塾では専任の教師陣を確保した上で理科の実験を導入しているそうだ。小中学校においては、授業時間数の短縮の中で、理科の実験を行う機会がどんどん減ってしまっている中、「自ら学び、考える力」を養う上で理科実験の導入は評価できる。

『老人力』

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赤瀬川原平『老人力』(筑摩書房 1998)を読む。
数年前に流行した「老人力」である。赤瀬川氏自身の物忘れや足腰の弱化、動作の度に「あ〜」と呟いたりするなど、老齢化につきものの「衰え」を「力」と言い換え、元気な老人パワーが空回りするエッセーかと思いながら読んでいった。改めて読んでみると考えることも多かった。しかし文体は思いっきり口語体であり、独特のリズムがあって読みにくかった。

 ちょっと理屈で考えてみるとね、いまの時代そのものが老人化してきているんじゃないですか。たとえば、僕の青年時代といえば六〇年安保で、時代もまだ若気のいたりっていうか、あまりスレてなかったんです。こぶしを振り上げて「それいけーっ!」って勢いで、すべて力で壊せるような気分があった。それが、七〇年代の暗い時代を通り抜けるうちに、やっぱりただ力じゃないな、という感じになってくる。その挫折の象徴が連合赤軍だったりしたんだけど、それからはむしろ世の中が柔軟というか、のれんに腕押しみたいな感じになってきて、僕も中年になったし、時代も中年にさしかかってきたんですね。そうなると、八〇年代はもう初老で、だから、いまの若い人というのは、生まれた途端に初老なんですよ。もちろん肉体的には若いにしても、妙にわけ知りというか、先が見えてしまった感じがある。彼らは生まれながらに、わけ知り老人として人生をスタートしているんです。それだけに、老人力というものが、冗談じゃなく身に染みて感じられるんじゃないですか、若い人にとっても。

『インターネット書斎術』

 紀田順一郎『インターネット書斎術』(ちくま新書 2002)を読む。
 パソコン使用に適した書斎のあり方や、パソコンの選び方から始まり、ホームページの主宰の心構えなど、パソコンやインターネットと言語にまつわる思いを書き連ねる。ホームページの管理のおいては特に、文字ばっかりの独りよがりのページにならないようにとの警告には耳が痛い思いだ。
ネット上における日本語であるが、「霞が関」と「霞ヶ関」、「斉藤」と「斎藤」の例のように、日本語は表記や送り仮名などおおらかな面があり、現在のインターネットの検索の上で大きな障害となっていると筆者は指摘している。確かにGoogleで検索すると「霞ヶ関」は182.000件、「霞が関」は230.000件、さらに「霞ケ関」でも12.000件がヒットする。行政は1967年に「霞が関」に統一されたが、地名や駅名は「霞ヶ関」のままであり、さらに1991年の旧総理府監修の政府刊行物でも「霞ヶ関」が採用されたため、混乱に拍車を掛けている。漢字、平仮名、カタカナが混在した日本語の特性は生かしつつ、検索に堪えうる日本語の表記の統一が望まれる。

吉見百穴

今日は体調もすぐれず、気分が憂鬱だったので、夕方ぶらぶらと東松山の方までドライブをした。目的もなく車を運転したのは久しぶりであった。途中吉見百穴へ立ち寄った。数十もの古墳時代の横穴式墳墓が山の斜面を覆っている見たことの無い景観である。古墳時代の人間に準えて思いを馳せることまでは出来なかったが、多少の気晴らしになった。

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『辞めるな、サラリーマン』

 ヨミウリ・ウィークリー『辞めるな、サラリーマン』(中公新書ラクレ 2002)を読む。
 「転職でキャリアップ」や「外資系で自己実現」など「転職ブーム」が続くが、本書はそうした転職が必ずしも成功せず、失敗している者が多い現実を暴き出す。経営者側は「早期退職優遇制」や「昇進を約束した出向」など手管を操り、労働者の首を切ろうとする。しかし、まだまだ終身雇用の雰囲気の強い日本では、よほど潰れかかった会社でない限り、残ったほうが後々うまく行くケースが多いことを丹念な取材で明らかにする。