新都心のコクーンへ映画を観に行った。
クォン・サンウ、ソン・スンホン主演『ひとまず走れ』 (韓国 2002)という韓国映画である。日本の中年女性に人気のある俳優が出演しているとかで、館内も女性の「シングルウォッチャー」が目についた。出演している俳優のことを知っていれば楽しめるコメディになっているのだが、何も知らないと単なるドタバタ劇を観ているだけになってしまう。男性が観てもあまり面白くないであろう。
『日本文学史』
奥野健男『日本文学史:近代から現代へ』(中公新書 1970)を読む。
表題通り、明治時代の仮名垣魯文から、1970年代の昭和を代表する大江健三郎、野坂昭如に至るまで文壇で活躍した文学者をほぼもれなく網羅している労作である。近代文学が常に時代に左右されながら、そして時代に翻弄される人間の姿に迫ろうとしてきたと、著者の奥野氏は文学の「発展」を主張する。明治から綿々と連続して文学の発展という視点で文学者、文学作品を位置づけており、大変分かりやすい文学史論になっている。
以下、何を言っているのやらさっぱり分からない引用文であるが、本書を読むと妙に合点がいく不思議な文章である。
明治以来の1世紀の日本文学を考えると、それは江戸時代の戯作文学と意識的に断絶を志し、西洋近代文学を全的に輸入、摂取し、日本という特殊な風土に、断絶しようとしてもしきれなかった先年余の日本文学の伝統のうえに、狭小ではあるが独自な深い私小説中心の近代文学を確立しました。それが大正時代のデモクラシーの中でようやく文学的に成熟したとたん、世界史的な近代の崩壊にぶつかったのです。新しい現代文学への模索は、大正末期から”革命の文学”と”文学の革命”と対立しながら、太平洋戦争を含む動乱期を試行錯誤をかさね、戦後15年たって、西洋先進国の近代本格小説への文学的コンプレックスが消滅し、ようやく今日過酷な時代状況の認識のもとに、主体的に世界史的な意味の現代文学を日本にも成立させ得る端緒についたというのが、日本文学の現在にいたる鳥瞰図です。
『フロイト』
ラッシェル・ベイカー著・宮城音弥訳『フロイト』(講談社現代新書 1975)を読む。
著者であるベイカー氏はどっかの大学の心理学者ではなく、伝記作家であるので、難解なフロイトの学説よりもフロイトの人生そのものにスポットをあてている。
フロイトは19世紀末から20世紀の前半にかけてオーストリアのウィーンで活躍した心理学者である。しかし、ユダヤ人であるというだけで、出世の道を断たれ、民族的な偏見もあってか、ユングやアドラーとも不仲になってしまい、晩年はナチスによって家族を虐殺され、自身も英国への亡命を余儀なくされた苦労を強いられた人物である。フロイトの精神分析が彼の生き方や時代に規定されたものだということが理解できた。フロイト自身の次の言葉が印象に残った。
人間は強い考えを抱いているかぎりにおいてのみ強い。
『日本国憲法を考える』
西修『日本国憲法を考える』(文春新書 1999)を読む。
駒沢大法学部教授である著者が、厳格な法定主義の立場から現憲法の制度的、構成上の不備を指摘し、ちょうど自民党の中道的な改憲論を述べる。国民主権と謳いながら、第99条の憲法の尊重擁護義務の主体に肝心の国民が入っていない不備を指摘する。また、「権利」という語はいきおい「権力と利益」を連想させ、力にまかせて私利私欲を実現することが「権利」であるというふうに捉えかねないので、ものごとの条理、道理を表す「権理」という訳語を提案する。不備のある憲法を完成させようとする著者の主張は分かりやすい。
そして、9条については前文の国際平和への希求を前提に、自衛のための組織保持の明記と徹底したシビリアンコントロール、そして、国際平和維持活動への参加と国際法規の遵守を入れるべきだと述べる。西氏は改憲について次のように述べる。
第九条の改正が俎上にのせられると、かならず「いつか来た道」に逆戻りするのではないかという議論が出てくる。そのような心配は、十分に理解できる。けれども、戦後の民主主義教育は、そのような逆コースを許すほど、やわではないと私は信じる。一方で国際平和を誠実に希求し、他方で国の安全をきちっと保持しうる内容であれば、国民の合意を得るのにけっして不可能ではないように思えるのだが。
9条にまつわる改憲問題は9条の条文だけの問題ではない。戦争に反対する声を封殺する自由権や排外主義的な雰囲気を生み出す平等権などとも関わってくる国の根幹の問題である。9条だけに話を限定させ、話を展開させる手法には納得出来ないものが残る。
『転落の歴史に何を見るか』
斎藤健『転落の歴史に何を見るか:奉天会戦からノモンハン事件へ』(ちくま新書 2002)を読む。
内閣官房の行政官である著者が日露戦争を勝利づけた1905年の奉天会戦からソ連に大敗を喫した1939年のノモンハン事件にいたる歴史を政府官僚の組織の立場から総括を加えている。
戦前の歴史というと、明治以降強化された天皇制や帝国主義、軍部の独裁による暗鬱とした全体主義国家とひと括りにしがちである。しかし、実際は明治維新を成し遂げ海千山千を越えてきた元勲が政府の指導者層にいた日露戦争の頃までと、軍隊学校出身者が政治を無視して拡大路線を突っ走ってしまった日露戦争後に大きな断絶があると指摘する。日本海大海戦の劇的な勝利など日露戦争までは欧米の先端的な兵器を巧みに操った戦略をとってきた日本政府であるが、太平洋戦争の頃になると竹槍で米軍機を突き落とせんなどの憐れな精神偏重主義へと陥っていく。そうした変化の分析から、著者は組織の温存と組織内の軋轢をさけようとする人間関係が、結局は残虐な侵略戦争へと流れていったと結論付ける。日本の軍事国家化への道は米軍やテロといった外圧よりも、仲間であること自体を重視する公務員体質の中にその巣窟があるのかもしれない。現役の官僚が書いた本としてはよく出来ている良書である。
1922年に駐日フランス大使であったポール・クローデルは外交書簡のなかで次のように述べている。現在に至る日本の社会体質をよく見抜いている。
今日、日本にやってきた人間がひどく驚くことは、憲法の規定とは無関係に国全体を動かしている主要なメカニズムがどこで機能しているのか、(略)一貫して日本を導いている中心人物がどこにいるのか、そして何を考えているのかを探ろうとしても、さっぱり何も見えてこないことです。(『孤独な帝国:日本の1920年代』)

