『転落の歴史に何を見るか』

斎藤健『転落の歴史に何を見るか:奉天会戦からノモンハン事件へ』(ちくま新書 2002)を読む。
内閣官房の行政官である著者が日露戦争を勝利づけた1905年の奉天会戦からソ連に大敗を喫した1939年のノモンハン事件にいたる歴史を政府官僚の組織の立場から総括を加えている。
戦前の歴史というと、明治以降強化された天皇制や帝国主義、軍部の独裁による暗鬱とした全体主義国家とひと括りにしがちである。しかし、実際は明治維新を成し遂げ海千山千を越えてきた元勲が政府の指導者層にいた日露戦争の頃までと、軍隊学校出身者が政治を無視して拡大路線を突っ走ってしまった日露戦争後に大きな断絶があると指摘する。日本海大海戦の劇的な勝利など日露戦争までは欧米の先端的な兵器を巧みに操った戦略をとってきた日本政府であるが、太平洋戦争の頃になると竹槍で米軍機を突き落とせんなどの憐れな精神偏重主義へと陥っていく。そうした変化の分析から、著者は組織の温存と組織内の軋轢をさけようとする人間関係が、結局は残虐な侵略戦争へと流れていったと結論付ける。日本の軍事国家化への道は米軍やテロといった外圧よりも、仲間であること自体を重視する公務員体質の中にその巣窟があるのかもしれない。現役の官僚が書いた本としてはよく出来ている良書である。

1922年に駐日フランス大使であったポール・クローデルは外交書簡のなかで次のように述べている。現在に至る日本の社会体質をよく見抜いている。

今日、日本にやってきた人間がひどく驚くことは、憲法の規定とは無関係に国全体を動かしている主要なメカニズムがどこで機能しているのか、(略)一貫して日本を導いている中心人物がどこにいるのか、そして何を考えているのかを探ろうとしても、さっぱり何も見えてこないことです。(『孤独な帝国:日本の1920年代』)

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