立花隆・児玉文雄・南谷崇・橋本毅彦・安田浩著『新世紀デジタル講義』(新潮社 2000)を読む。
「情報」の定義に始まり、コンピューターの歴史、インターネット前史、オープンソースの潮流などデジタルを巡る様々な問題を扱っている。私たちはコンピューターの発展というとCPUの計算能力の向上やメモリの容量の増加など単純な数値の上昇しか思い浮かばない。しかし、本来、コンピューターは人間の論理的思考の道具として発展したものであり、人間の複雑な思考をコンピューターが扱う2進数計算にまでどれだけ還元できるかというアルゴリズムの進化こそが問われるのだという。
『クリスマス・キャロル』
ディケンズ『クリスマス・キャロル』(岩波少年文庫 1967)を読む。
1843年に出版されたディケンズの代表作である。アニメ映画の台本のような単純なストーリーであるが、貧富の差が拡大していく世知辛い資本主義の世の中で、キリスト教の力を再確認しようとする低所得者層の市民の姿がかいま見えてきた。
『「超」手帳活用術』
坂東恭一『「超」手帳活用術』(河出書房新書 1996)を読む。
新潮社、毎日新聞、朝日新聞を経て現在大学生相手のマスコミ塾を主宰する著者が、スケジュール管理や発想を書き留めるメモ、また人脈作りのためのアドレス帳などビジネスにおける手帳活用の様々なノウハウを伝授する。携帯電話やインターネットの普及前に書かれたのものであり、少々ネタの古さは否定できないが、”軽い、早い、安い”手帳こそが情報と時間を有効に活用する一番のツールだという著者の言い分は正しい。日常生活の中でふとひらめいたアイデアを即座に書きとめるといったことは手のひらに収まる手帳にしかできないことだ。
また、筆者はメモのとり方について、集めた情報に出来るだけリンクを張っておくことが有効だと述べる。テレビや新聞、雑誌などから得た情報やと同時に、自分が肌で感じた情報を整理しておく。そうして集めた情報と関連した内容をまとめてグループ化しておく習慣をつけておくと、いざという時に適切な企画や報告をすることができると説く。
『ぼくは勉強ができない』
山田詠美『ぼくは勉強ができない』(新潮社 1993)を読む。
高校3年生の主人公時田秀美くんが、周りの友人や大人がからめとられている常識や習慣に、猪突猛進にぶつかり、そこから成長の糸口をつかんでいく。恋愛やセックス、大学受験などの困難をすべて成長の糧とする若さと経験主義にあふれたビルドゥングスロマン小説である。
ぜひとも高校1年生の頃に読みたかった小説だなあと感じながらページを繰っていった。するとあとがきで、山田詠美さんは「私は、むしろ、この本を大人の方に読んでいただきたいと思う。私は、同時代性という言葉を信じていないからだ。時代のまっただなかにいる者に、その時代を読み取ることは難しい。叙情はつねに遅れて来た客観視の中に存在するし、自分の内なる倫理は過去の積木の隙間に潜むものではないだろうか」と付け加えていた。確かに「青春小説」は既に青春を過ぎてしまった者にこそ価値があるものかもしれない。青春の最中にいる者にとってはこれからの人生の方が小説よりも面白いものであり、小説を味わっている時間の方が勿体ないのだから。
ぼくの前に何が立ちはだかるかは、まったく予測がつかない。ぼくは、ぼくなりの価値判断の基準を作っていかなくてはならない。忙しいのだ。何と言っても、その基準に、世間一般の定義を持ち込むようなちゃちなことを、ぼくは、決してしたくないのだから。ぼくは、自分の心にこう言う。すべてに、丸をつけよ。とりあえずは、そこから始めるのだ。そこからやがて生まれて行く沢山のばつを、ぼくは、ゆっくりと選び取って行くのだ。
『歌がわが子の頭をよくする』
公文公・小田林浩子『歌がわが子の頭をよくする』(くもん出版 1988)を読む。
ゼロ歳児の子どもに童謡を聞かせることで、子どもは言葉を早く覚え、その結果運動面や生理面における成長も早まるという。ソニーの創業者盛田昭夫氏も同様のゼロ歳児教育を提唱していたが、つまりは、幼児に言葉や音楽、手足の動きなど様々な刺激を与えることが脳の発達に有効だという説である。遊びの中で、絵本や童謡、ジグソーパズルなど多くのツールを活用し子どもと触れ合うことが肝要だと述べる。私も早速神保町にて、童謡が流れる絵本とあいうえおのカードを購入してきた次第である。
公文式の神業的な教育的効果を強調するあまり、生後32日で「おかあさん」と発声し、二歳で方程式が解けるようになった神童が紹介されていたが、少々いかがわしい印象の残る内容ではあった。
また、近年公文式では、自閉症、知的発達遅滞、LD(学習障害)、ADHD(注意欠陥/多動性障害)、ダウン症などの障害のある生徒も、学習を続けるうちに「机に向かって座れるようになった」、「単語でしか話せなかったが、文脈の通じる会話になってきた」など社会性をともなう変化が見られているという。(詳細はこちら)
どれぐらいの生徒に効果があるのかは分からないが、公文式は、個々の生徒の興味と動機に応じたプログラム学習となっているので、多人数で一斉学習を行なう学校での勉強よりも馴染みやすい生徒は少なからずいるであろう。個々の生徒の実態を見きわめる判断は必要であろう。
