『16歳だった』

中山美里『16歳だった:私の援助交際記』(幻冬舎 2005)を読む。
タイトルに惹かれて手に取ってみた。著者は現在フリーライターとして活躍している。エンコーだけでなく、レイプ、乱交、ガンジャ(大麻)や覚醒剤を吸うシーンまであり、一時期流行ったケータイ小説のような展開で、実際の体験記なのか、全くのフィクションなのか、よく分からない作品となっている。最後は太宰の「人間失格」のように、廃人みたいになり、再び家族という鞘に収まっていく。

気になったところを引用しておきたい。

(援交に慣れてきて)男のジャンルも覚えた。女馴れしていて女子高生にも興味のある男、まったくもてそうにないロリコン好きのいわゆるオタク。だいたいそれのどっちかだ。(中略)ロリコン好きは女子高生の記号にこだわる。セーラー服や鞄。髪の毛の色。ルーズソックス。

あたしは援交と名のついた売春をしたくてしたくてたまらなかった。あたしの体がお金になる売春。触れたくもない相手とセックスをして、お金をもらう。それは高ければ高いほどいい。その相手が同情できないくらい醜くて、値段が高いほど、あたしは嬉しかった。
あたしは援交オヤジとたいして変わらない。
もてない男が高いお金を払って若い女の子とセックスをする。なんのサービスもしてくれない。技術もない女子高生を喜んで買う。自分がこんなにお金があるから若い子とセックスできるとオヤジが喜ぶように、あたしはあたしで最低価格五万円というお金で自信のない自分に価値を見いだした。あたしは少なくとも五万円払う価値のある女なんだと。あたしは、醜い相手から高い対価を奪うようにもらうことに悦びを感じたのだ。

記号としての女子高生や性のブランド化など、1990年代後半の宮台真司を思い出させるセリフである。