「転向」後の中野重治の創作態度

【略年表】
1924年4月
東京帝国大学入学。在学中よりマルクス主義芸術研究会をつくり、28年の3・15事件(共産党一斉検挙)などを経て、全日本無産者芸術連盟を結成。芸術と政治の関係について考察を深める。

30年5月
治安維持法容疑で逮捕。翌年日本共産党に入党。

32年4月
日本共産党の外郭団体である日本プロレタリア文化連盟に対する弾圧が強まり、多くの作家同盟員とともに逮捕される。以後2年間拘束される。

34年5月
日本共産党員であったことを認めて出所。翌年5月この経験をもとに『村の家』を発表。

36年11月
「思想犯保護観察法」が実施され敗戦まで保護観察処分。翌年1月『小説の書けぬ小説家』を刊行。
39年2月 自伝的小説『歌のわかれ』を《革新》に発表。

41年12月
太平洋戦争開始とともに共産党への弾圧徹底化。中野の身辺も洗われる。

45年8月
長野県小県郡において敗戦を迎え収集解除。11月合法化された日本共産党に再入党。

46年3月
日本民主主義文化連盟創立。この頃日本共産党の方針で「プロレタリア文学」から「民主主義文学」へと名を変える。

47年4月
第1回参議院選挙に日本共産党から立候補、当選して3年間議員として働く。

54年1月
『むらぎも』を《群像》に連載。翌年毎日出版文化賞を受賞。

64年11月
党組織温存を図るだけの党中央と意見が合わず、日本共産党を除名処分となる。翌年1月『甲乙丙丁』を《群像》に連載。

69年12月
『甲乙丙丁』により野間文芸賞を受賞。『日本共産党批判』を刊行。

79年8月
胆のう癌のため死去。 11月『わが生涯と文学』刊行。

【プロレタリア文学】
そもそもプロレタリア文学運動はプロレタリア解放運動の一翼以上のものではなく、特に昭和期に入って、「共産主義」が運動の主導権を握るようになってから、きびしく自覚的にその点を強調した。したがってそれは坪内逍遥によって提唱されて以後、わが国の近代文学の根本理念をなしてきた「芸術の自律性」を否定するものである。新感覚派の革新が芸術の範囲にとどまったのに対し、プロレタリア文学は広く社会を対象とし、「社会に現に存在している」という人間観自体の革命を企図する運動であった。

大正期に作家にあっては、自己がすべてであり、他人は無であった。それに対して、プロレタリア作家は他人(社会)がすべてであり、自己は無に等しかった。両者は正反対であるが、まさにその点で表裏をなしており、プロレタリア文学は私小説の否定であると同時にその延長といえる。
それは大正期の「ありのまゝの私」を否定すると同時に、「他人のための私」をつくりあげること、私を社会的意義のある存在にすることを芸術家の使命と信じたので、そのために「前衛の眼」を持つことが必要ならば、自分が「前衛」-共産党員-になることを、プロ文作家は芸術的に必要と信じた。
※小林多喜二『蟹工船』『党生活者』

中野重治は一方でそのような大正期の私小説家の素質を受けながら同時に熱烈潔癖な共産主義者であり、彼の芸術理論の根底には私小説の伝統をそっくり受けつぎながら、共産主義との合一を計ろうとしている。

敗戦後、マルクス主義も戦時中にうけた弾圧の反動もあって、特に盛んな蘇りを見せたが、その文学への影響は、戦前にくらべるとかえって希薄な限られたものになった。この一見奇異な現象は、戦前のプロレタリア文学の特質を考えてみれば理解できる。戦前の共産党が、政治的に弱い力しか持たなかったということが、かえって共産主義に純粋な「思想」としての魅力をあたえ、文学者もその理想主義に魅かれた。しかし戦後共産主義運動が合法化されることで、この最大の魅力を失ってしまい、戦後の左翼文学が、左翼運動全般の「進展」によって運動内部の地位の重要性と、外部に対する鋭利な批判性を失ったことは事実である。

戦後日本共産党がその目的よりも組織の存続の方に重心が移動していくと同時に中野の考えと大きく解離してきた。中野はあくまで自己否定の上に立って、その中で社会の中の自分の存在を見つめ直すという態度を人生に置いても作品に置いても貫き通した。それゆえに中野は一貫して「反権力」という自分の置かれている立場を認識した。『むらぎも』という作品においては細かく自分の良心と天皇制を突き合わせていく作業を行なっている。非常に私小説的な手法で「天皇制」批判に展開している。

【最後に】
しかしわたしは中野の作品にはマルクス、住井すゑなど社会に「積極的」に働きかけていく作家に比べ「迫力」がいまいち感じられない。押し出しが非常に弱い。
60年代後半から70年代前半の全共闘運動の時期にのさなかに『甲乙丙丁』が発表されたのであるが、やはりその私小説的態度が災いして多くの学生から共産党内部の分派闘争ぐらいにしか当時は受け取られなかった。
しかしその中野の余りに正直なまでの良心の苦悩は時代に色褪せることなく今でも私たちに重々しさを与えている。

【参考文献】
『中野重治と社会主義』石堂清倫(勁草書房)1991年1月5日
『日本の現代小説』中村光夫(岩波新書)1968年5月6日
『全共闘文学論 祝祭と修羅』黒子一夫(彩流社)1985年9月25日
『人権と教育22 1995.5』(社会評論社)より「中野重治-60年代と90年代の間」