私はこの授業で取り上げられるまで、この作品を読んだことはほとんどなかった。
しかしこれまで何度か耳にする機会はあった。
剣道などでは、五輪書と並んで、この世阿弥の風姿花伝が「道のため」として、稽古論などが、また形を変えつつ様々に取り入れられている。物まねから入り、理にしたがった正しい形を学び、順序良く、数をかけ、片寄りなく、年齢に応じて行なうことなどが、剣道の修業においても口を酸っぱく言われるようなことである。
年齢とともに衰えてくるパワー、スピードに対して技術の優位性を売り物にしている以上、このような修業体系をとるのは当然である。
確かに、素人がみても、歳を重ねた剣道の達人の方の技術はすさまじさははっきり伝わってくる。彼の剣の一振りの気合いと迫力には、力とスピードに頼る若者を簡単に一蹴するくらいのものがある。 力やスピード(用花)にとらわれることなく、切れ味そのもの(性花)に価値を求める。剣道があくまで剣「術」ではなく剣「道」としているレーゾンデートルである。
しかし、現在剣道の世界では特に若年層ではこのような「剣の道」といったものはまったく軽視されている。強ければ勝ち、勝てば官軍、弱いくせに精神論だけ吐くなといったことがあからさまに言われている。漸々修学といった剣道の根幹も崩れてしまっている。
確かに風姿花伝の世界もある意味単なる実存主義で終わってしまっているとも言える。それ自体非常に強い意義を持つが、他を制してまで訴えかける力に欠けている。
これは世阿弥の生きざまにも大きく関わっている点であると思う。前半生を有意義に過ごしてきたが、後半生没落し、自分が若い頃培ってきた芸道に意味を見いだそうとする老人的営みといった意地悪な見方もできよう。
最近は武道の世界にも商業主義が押し寄せて、「道」といったものは「「古くさい、苔の映えた負け犬的論理」と受け取られているが、そのような中で風姿花伝のもつ教えがもう少し省みられてもよい。