『指導者 上杉鷹山に学ぶ』

鈴村進『指導者 上杉鷹山に学ぶ』(三笠書房 1992)をサラッと読む。
江戸時代屈指の名君として名高い米沢藩10代藩主の上杉鷹山の政治哲学、経営理念が紹介される。バブル期の経営者向けに書かれた本で、いささか強引な現代的解釈が散見されるが、鷹山の偉人ぶりは伝わってきた。
鷹山は東北地方で数十万人が亡くなった近世最悪の天明の大飢饉(1782〜1788)を一人の餓死者も出さずに乗り切ったことで知られる。鷹山は上杉家の嫡男だと思っていたが、山形とは遠く離れた日向(宮崎県)高鍋藩の二男として生まれている。そして重度の障害を抱えていたであろう幸姫との養子縁組が結ばれて、米沢藩主となった人物である。全くのアウェイな山形県に赴任し、既得権益を主張する輩を説得し、逼迫した藩財政の一大改革を成し遂げている。また、教育にも関心を持ち、現在も高校の名前に残っている「興譲館」を起こしている。
戦国武将のように派手な戦争をしていないし、江戸幕府の中枢で政務を執ったわけでもない地味な存在ではあるが、「もし鷹山が〜〜だったら」と想像を膨らませてみたくなる人柄である。

ちなみに、日光東照宮の社務所の記録によれば、天明3年の6月から8月の92日間の天候は、雨53日(57%)、晴19日(20%)、曇13日(15%)となっており、盛岡や米沢では人口の20%が亡くなり、仙台藩では30万人が餓死・病死したと言われる。吉宗の孫である松平定信が藩主を務める白河藩でも餓死者が一人も出ず、後に松平定信は老中に補され、寛政の改革に取り掛かっている。