『性同一性障害』

吉永みち子『性同一性障害:性転換の朝』(集英社新書 2000)を斜め読みする。
ここ数日、話題になっている自民党議員のLGBTへの差別発言であるが、「T」のトランスジェンダーって何だっけと思い手にとってみた。一般に「性同一性障害」と訳されるが、「障害」と一括りにするのは雑な議論となってしまう。DSM−Ⅳ(アメリカの精神神経学会の精神疾患の診断と統計のためのマニュアル)による診断基準に適合した場合に、「性同一性障害」との診断が下され、性別適合手術の対象となる。が、トランスジェンダーの人たち全員が「障害」と認定され、手術を希望するわけではない。トランス自体の揺れ幅や個人の捉え方、社会のあり方によって、トランスジェンダーの定義は変わってくる。

 性同一性障害の人の数は、男から女を望む人が、女から男を望む人の3倍いると言われている。男から女を望んでいる人はほぼ3万人にひとり、女から男を望む人は10万人にひとりというのが米国などで発表されている数字である。(中略)男から女へと望む人には、女性の服装を望むトランスヴェスタイトや、社会的な役割としての女性を望むが、手術までは望まない人、ホルモンだけで安心が得られる人、胸を形成してペニスはそのままで満足できる人など、グラデーションの幅が広い。それに対して、精神科あるいはジェンダークリニックを訪れる女性から男性への転換を求める人は、かなり幼い頃から自分の性に違和感を感じていて、その思いは一様に大変激しい。
 男性の方が「男性らしさ」のヒナ型がはっきりしていて、そこから少しでも外れると世間は受け入れない。その許容範囲の狭さが、一つの原因ではないかという見方もある。スカートを決してはかない女性はたくさんいる。化粧などしなくても、それは個人の好みの問題だし、髪が短くても、男言葉を使っても、男らしい態度でも、世の中、少しも珍しいことではない。女性の方が生き方の自由度がずっと高くなっている。職業も、男ができることは大体できるようになった。女性のトランスヴェスタイトは、何もいちいちカミングアウトして闘う必要などないのかもしれないトランスジェンダーでもある程度はクリアでき、深刻にならずにすんでしまうことがありうる。
 が、男性の場合、スカートをはいて町を歩こうものなら、即ウワサになる。「ボーイッシュ」は褒め言葉になるが、「女っぽい男」や「女々しい男」は決して褒め言葉にはならない。

最後に、著者は次のように述べる。

 性に違和感を持つ人たちには、グラデーションがある。性転換を希望する人たちばかりではない。自分の性別や、それに属する社会的、文化的性別に不快感や違和感を持って、反対の性で生活を希望しながら、性転換手術までは望まないトランスジェンダーの人たちもいる。性分化の段階で、遺伝子・性腺・内分泌など様々なレベルで男女の非典型的な要素が含まれるインターセックスの人たちは、男と女だけで世の中が構成されるという前提への激しい疑問を投げる。
 この世には、男と女のふたつの性しか存在しないという性別二元論が社会の前提にあって、心と身体の性を一致させるという性転換手術も、どちらかの性に属するという点ではその前提の上に成り立つ。それでは、どちらの性の認識を持てない人、身体を一致させず心の性で社会生活を送りたいと願う人はどうしたらよりよく生きられるのか。
 そして、性転換手術をした人たちを含め、性的マイノリティーの法的な地位や人権をどう守っていったらいいのかは、これから考えていかなければならない事柄である。

性自認の問題は、個人のアイデンティティと深く結びついており(結び付けられており)、一概に個人の経験だけで問題を単純化してしまうのは危険である。今回の自民党杉田議員の「LGBTのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり生産性がないのです」という発言は、彼女自身の頭の悪さ、引いては自民党の社会観の欠陥を如実に露呈している。