「インパクション106号」

学生時代に購入したまま本棚に眠っていた「インパクション106号」(インパクト出版会 1998)を引っ張り出してみた。「現代新保守論壇を読む」という特集が組まれており、パラパラと眺めてみた。特集の巻頭言が良かった。20年前の文章とは思えない。近年の若い世代に支えられた自民党の一党独裁体制を予見したような内容である。
他にも昨年亡くなった道場親信氏のエヴァンゲリオンを切り口にした新保守の分析や、1994年の5・29早慶戦「天覧」試合不当弾圧国賠闘争の経過を記した渡辺幸之助氏の報告ルポ、法政の貧乏くささを守る会が発行していた「貧乏人新聞」の紹介記事など、

 

 

(中略)最近、20歳前後の若い世代と話していると、「保守的な言説を吐く人々の我田引水な主張や論理の破綻を)面白がってばかりいるわけにもいかないようだ」という気分になることが間々ある。「マイノリティの運動は弱者ファシズムだ」とか「従軍慰安婦の強制には証拠がない」といった声や、さらには「家族秩序のためには夫婦別姓は危険だ」とか「社会秩序を守るためにも厳しい父親が必要だ」といった言葉をよく聞くからだ。おまけに、こうした発言をする若い世代の方が、どうも他の同世代と比べて読書量が多そうだというのもなんだかイヤーな感じだ。
現状に不満で、知識欲もある者が、新・保守的論調にひきつけられるというこの構図のなかには、「新・保守こそが新たな反体制である」とでもいったような一種のネジレが存在しているようにも思う。教科書的で「おりこうさん」風のものいいいがイヤだと思っている連中が、むしろ新・保守的な言説に同調しやすいのだ。しかし、現状は、あきらかに日本の政治体制は保守派のヘゲモニーのもとにある。むしろ、新・保守論壇が批判している「人権」や「民主主義」など、日本のどこにも根付いていないのだ。
新・保守の隆盛の背景には、刺激的で新しい要素をつねに追い求めている。「メディア市場」がそれに乗っているということもあるのだろう。これまで表面化しなかった保守的言説の方が、古臭い戦後民主主義の言説よりも「商品化」しやすいというわけだ。また、それに悪乗りする「便乗・新・保守主義者」もたくさんいるようにも思われる。新・保守主義者には、声が大きいわりに、腰の座った論者がほとんどいないように見えるのもこの辺に原因がありそうだ。自分の主張の切実さよりも「商品」としての自分の方に重心がかかった論者が多いのだろう。ただし、彼らの「芸」はそれなりに評価しておいていいのではないかとぼくは思う。
それなら「戦後民主主義」(日本の新左翼は、むしろ戦後民主主義批判の急先鋒だったはずだ)でも「新・旧保守」でもない、ぼくたちはどうすればいいのか。もちろん、「新・保守論壇」を表面的に亦、紋切り型に批判すればいいということには絶対ならない。むしろ、新・保守に対抗するために、今求められているのは、不徹底な「人権」と「民主主義」とを、ラディカルなデモクラシーの方へ切り開くための「新鮮な言葉と行動」を、ぼくたちが生み出すことなのではないか。(伊藤公雄)

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