月別アーカイブ: 2019年1月

「靖国神社での抗議行動は正当だ! 東京地裁は直ちに2名の勾留を解け! 公判闘争を支援しよう!靖国神社での抗議行動は正当だ! 東京地裁は直ちに2名の勾留を解け! 公判闘争を支援しよう!」

以下、救援連絡センターのメーリングリストから転載


 2018年12月12日、靖国神社外苑で、2人の香港人の男女が「建造物侵入」の容疑で逮捕された。
男性は、「南京大虐殺を忘れるな 日本の虐殺の責任を追及する」と書かれた横断幕を広げ、日本軍国主義、南京大虐殺、靖国神社A級戦犯合祀に対する批判のアピールを行った。女性は、男性の抗議行動をビデオで撮影していた。抗議を開始してまもなく、靖国神社の神門付近にいた守衛がやめるように言ってきたので、男性が立ち去ろうとしたところ、複数の守衛が2人を取り押さえ、警視庁に引き渡した。
 2人はそのまま逮捕・勾留され、さらには12月26日に起訴されてしまった。その身柄は今なお警察署の「代用監獄」に留め置かれている。1月15日の弁護団による保釈申請に対しても裁判所はこれを却下。2人はすでに1ヶ月以上も勾留され続けているのだ。
 「人質司法」といわれる日本の刑事司法のありかたは、内外から多くの批判を浴びている。今回2人は、「正当な理由なく靖国神社の敷地内に侵入した」建造物侵入という罪状で起訴された。だが、外苑は誰でも自由に出入りできる場所だ。仮に有罪となったとしても微罪であるのに、今回2人に対して加えられている逮捕、起訴、長期勾留という事態は、まさにアジアの人びとが、靖国神社において公然と抗議行動をおこなったことに対する「見せしめ弾圧」であったと言わざるを得ない。この強硬な姿勢が、安倍政権においてより顕著になっている歴史修正主義、国家主義の強権的姿勢と無関係であるはずがない。
 抗議のアピールが行われた12月12日という日付は、1937年12月13日の日本軍による「南京陥落」の前日である。この日を前後しておこった、日本軍による膨大な中国市民の虐殺=「南京大虐殺」の歴史的事実を、日本の右派および右翼政治家は一貫して矮小化し、実質的に否定しようとしてきた。また香港は、アジア・太平洋戦争のさなか、3年8ヶ月にわたって、日本の軍政下に置かれた地である。日本政府は、戦後一貫して侵略戦争被害者への謝罪も補償もしないばかりか、歴史的事実を転倒させ、東アジアの平和を求める動きに逆行し続けてきた。このような日本政府のあり方を、中国やアジアの民衆が強く糾弾するのはまったく当然のことである。男性は、歴史問題に関する自らの意思の表現として、この象徴的な場所で抗議行動を行ったのだ。それが靖国神社に立ち入った「正当な理由」でなくて何であろうか。
 また、逮捕された女性は、市民記者として、男性の抗議行動を記録していた。それが、男性と共謀の上「侵入」したとして罪に問われたのである。これは明らかに、報道の自由に対する不当な介入でもあると言わなければならない。
 私たちは、この日本社会に暮らすものとして、彼らの行為が提起したことの意味を受け止めながら、剥奪され続けている2人の人権を回復し、彼らを被告人として3月から開始される裁判闘争を、香港の友人たちとともに支えていきたいと考える。
 本事件に関する注目と司法権力への監視を。3月公判への傍聴支援を。そして2人の裁判闘争を支えていくためのあらゆる支援とカンパを訴えます。

(2019年1月21日)

12.12靖国抗議見せしめ弾圧を許さない会
〒105-0004 東京都港区新橋2-8-16 石田ビル5階 救援連絡センター気付
mailto:miseshime@protonmail.com
振替口座:現在口座開設準備中
*暫定措置として、「12・12靖国抗議弾圧救援」と指定のうえ、救援連絡センターに送金してくださって大丈夫です。
郵便振替 00100-3-105440 救援連絡センター

★ 法廷期日:3月7日(木)10:00〜、3月19日(火)10:00〜
ともに、東京地裁429号法廷

『二人の平成』

橋本治・中野翠『二人の平成』(ちくま文庫 1995)をさらっと読む。
1991年に刊行された本に加筆された本である。文芸評論を手がける両者の対談集となっており、平成の始まり頃の文芸時評である。両者も半歩時代を先取りした視点から社会やマスコミを見ており、当時の時流に対する文句が続くだけで、あまりおもしろいとは思わなかった。
その中で、橋本氏の天皇制に関する話が興味深かった。引用してみたい。

(橋本)というか、それこそあの人(今の天皇)は自発的にものを考えるってことを徹底して受けさせられちゃった、そういう意味では前の天皇とは逆の意味の特殊な人でしょ。だから、ずーっと状況が変わってくのに従って、「自分で考えて、こうします」っていうふうに、天皇制の最後の決着をつける義務を持った人なんじゃないかなあと思うの。だから、それをそばでぐちゃぐちゃ言うのは変で、「天皇だって人間なんだから、”天皇をやめる”って言う権利はあるはずだ」ぐらいのことを言い出せばおもしろいのになって思うんだ。
(中野)言うはずないじゃない。
(橋本)ないけど。でもわかんないよ。だって定年まぎわにスポットが当たっちゃって、自分じゃ半分定年の準備をしてたような人が現役に復帰させられて、ある意味で「現役をやる準備はずっとしてなかった」ってことになるとヤバイじゃん。天皇をやるってことよりも、自分の息子の父親やるってことが、あの人にとってはすごく大きな空白のはずなんだよね。だから、二人そろって天皇の息子をやってたって気がするの。皇太子と皇太孫じゃなくてあれは親子っていうより兄弟のような気がするわけ。その弟のような息子が皇太子ってことになっちゃったら、父親は次に継承するってことを考えなくちゃいけないわけで、そうなった時に、さらに次の時代の天皇ってことを突然考えなくちゃいけないわけでしょ。それが一番辛いと思う。(後略)

埼玉レジャーランド

子どもとトレカ探しのサイクリングの帰りに、埼玉レジャーランドに立ち寄った。十数年前にバッティングセンターで空振りを増産して以来である。ゲームセンター内の記憶は全く無いが、ラジコンコーナーで中年男性が肩を並べてプロポ(だったっけ?)の操作に夢中な姿は、30数年前のタミヤのラジコンカーのTV番組を思い出させた。
考えてみれば、ゲームもラジコンもバッティングも健全な趣味である。誰しもそうした日常を批判することは出来ない。

『沈黙』

第2回谷崎潤一郎賞受賞作、遠藤周作『沈黙』(新潮文庫 1981)を数ページだけ読む。
1966年に刊行された本である。本棚の整理で、奥の方で埃をかぶった本を引っ張り出してみた。
文芸評論家佐伯彰一氏の解説に、ばっちりな紹介があったので内容を引用し、読んだつもりにしておきたい。

 もっとも、ここにおけるドラマの仕組みは、むしろ簡単率直なものだ。切支丹禁制のあくまできびしい鎖国日本に、三人のポルトガルの若い司祭が、潜入をくわだてる。島原の乱が鎮圧されてから間もない頃のことで、一きわ取締りの目もきびしく、何とか無事上陸を果し、日本人信徒との連絡をつけたものの、もちろん、間もなく捕われて、過酷な拷問を加えられ、ついに背教の止むなきにいたる。そもそもの当初から、失敗、敗北はほぼ明白な、いわば絶望的な挑戦のくわだてであり、果して事態は予測された通りに進行する。思いもうけぬ不意打ちは、まったく起らないというに近いのだから、ドラマとしては、わき道なしの直線的展開が一きわ目立つ。これほど一本道の、見通しのよすぎるほどの筋立てで、われわれ読者を一気に作中に誘いこむとはと、改めて小説家遠藤周作の力量のほどに感心させられる(後略)

『神はテーブルクロス』

春日部イオンのスタバで、須藤元気『神はテーブルクロス』(幻冬舎 2007)を読む。
エッセーというかポエムというか、よく分からない個人的な思いが綴られる。しかし、スタバでコーヒー片手にポエムを読むというのは心地よいものだ。
その中で、私が強く共感した章を引用しておきたい。須藤氏が述べるように、私も本は借りない、折り目をつけて汚く読む、記録するということを肝に銘じている。

 とても効率の良い投資活動は読書だと思う。
 まず、著者が何年もかけて得た方法や物語を1〜2時間で吸収できる。また、自分のボキャブラリーの数が増す。他にも、さまざまなシチュエーションに置かれた人間の心理や傾向を学ぶことで、人生の視野を広くすることができる。(中略)これらのメリットに気がついてからはどんなにお金がなくても本を購入することだけは惜しまなかった。
 読書にはポイントがあるのでいくつか書いてみたい。

「本は自分で買うこと」
 投資する。自らお金を出すことにより、何かしら得ようという気持ちが強くなる。それに、借りた本だと感銘を受けたセンテンスに線を引いたり折り目をつけたりすることができない。本とは本来、汚すものだと思っている。僕の本は良いものであればあるほどボロボロになっていくので、良い本は本棚を見るとすぐにわかる。

「読み終わったら書き出す」
 ほとんどの人が読み終わった本はそのままにしておく傾向が強い。すると、大抵は三日もすると内容の90%以上は忘れてしまうらしい。読んでいるときに良いセンテンスがあれば折り目をつけておく。それを、気が向いたときにでも書き出すと吸収の仕方がまるで違う。自分の夢もちょっとしたことでたびたび忘れるので書き出すことをオススメする。

「明確な目的意識を持って読む」
 読む本から何を学びたいかというテーマを持つ。何気なく読むのと目的意識を持って読むのは内容の吸収の仕方が違う。夢を持って行動している人とそうでない人との差と同じであり、もしくは学校や職場に好きな人がいるかいないかでのモチベーションの高さの違いと同じである。

「同じジャンルの本を違う著者で何冊か読む」
 専門的に学びたいものがあれば同じ著者の本を何冊も読むのではなく、違う著者の本を5冊ほどランダムに読むほうがいい。書いてあることはそれぞれ違うのですべての鵜呑みにせずにいろんな角度から読める。そして自分なりに咀嚼してオリジナルの哲学や手法を構想することができるのである。(後略)