月別アーカイブ: 2018年7月

「末端に責任転嫁 『下剋上』に通じる抵抗」

本日の東京新聞夕刊にノンフィクション作家保坂正康氏のコラムが掲載されていた。このところ加計学園の獣医学部新設や自衛隊中堅幹部の暴言、財務省の森友学園との交渉記録の意図的廃棄、防衛省のイラク日報隠ぺいなど、虚言、ごまかし、言い逃れ、責任転嫁の事件がメディアを賑わせている。これらの事件に共通する構図として、保坂氏は次のように述べる。

 この構図は二つの特徴を持っていることが容易に分かるだろう。
一つは、責任は「より下位の者に押しつけられる」である。もう一つは自衛隊中堅幹部の件のように「言った」「言わない」に持ち込み、うやむやにしてしまおうとの計算である。私たちは、誰の言を信用するのか、という基本的な次元に追い込まれているということである。
保坂氏の「基本的な次元」という言葉が印象に残った。ここ数年の国会中継を見ても、論点をすり替え、誤魔化し、信用の有無という低次元のレベルでしか政治を見ることができなくなってしまっている。

保坂氏はさらに次のように続ける。

 この二つの特徴を最もよく重ね合わせることができるのは、太平洋戦争後に、連合国によって裁かれた日本人将校、下士官、兵士のBC級戦犯裁判である。
日本軍将兵の非人道的行為は、米国、英国、オランダ、フランス、ソ連、中国など各国の法廷で裁かれた。実際に手を染めた兵士は、上官の命令によって捕虜を処刑している。しかし、裁判で上官は「殺害しろ」とは言っていない、「始末しろ」とは言ったけれど、と強弁し、兵士たちが死刑を受けたケースも少なくない。(中略)
BC級戦犯裁判の残された記録は、末端の兵士に責任が押しつけられていくケースが多いと語っている。この構図は、「言った」「言わない」や「会った」「会っていない」の社会事象と全く同じなのである。

最後に保坂氏は次のようにまとめる。

 いま、私たちは歴史が繰り返されているとの緊張感を持たなければならないだろう。いや「歴史の教訓」が生かされていないことへの怒りと、私たち一人一人の運命が、こんな構図の中で操られていくことを透視する力を持たなければならないはずだ。時代はまさに正念場なのである。

『アタシはバイクで旅に出る。』

国井律子『アタシはバイクで旅に出る。(2):お湯・酒・鉄馬三拍子紀行』(エイ文庫 2003)を読む。
ハーレーにまたがって北海道や四国、九州、伊豆、北陸に加えハワイを旅する、雑誌『クラブ・ハーレー』に連載されたコラムである。写真も多く、地元のハーレー乗りとの触れ合いや自然の美しさがリアルに伝わってきた。
日々の人間関係に疲れた頭に一服の清涼剤となった。

『天地明察』

冲方丁『天地明察』(角川文庫 2012)を読む。
感動作という触れ込みであったが、4代将軍家綱の時代に改暦を担当した渋川春海の生涯を描く。
保科正之や山崎闇斎、関孝和、徳川光圀、朱舜水、酒井忠清など歴史上の人物が、同じ17世紀後半の同時代の人物だったことに感動した。特に保科正之の主人公以上に、幕政に対するストレートな思いがよく伝わってきた。
しかし、教材研究の一環として読んだので、ストーリーの面白さがいまいち頭に入ってこなかった。

経産省前脱原発テント日誌

経産省前脱原発テント日誌 7月5日(木)版【拡散希望】より転載

◎スポーツは僕らの気持ちを解放してくれる(?) 7月1日(日)

 例年よりも早く梅雨があけたらしい。ピカーと光って雷音がしないと、どうも梅雨あけの気はしない。戻り梅雨といわれる鬱とおしい日々が、また、やってくるのか。サッカーのワールドカップの狂騒にはうんざりというところもあるが、昨今ではスポーツくらいしか、不快な気分を払ってくれるものはないのだから、致し方ないのか。寝不足になるのだが、不快感はあまりのこらない。不快ばかりの世の中だが、スポーツくらいしか気持を解放してくれるものはないのか。歌もあるが、最近は一人でカラオケに行くのも足が遠のいている。

 そういえば、日大アメフト部の悪質タックル問題の解決はどうなったのだろうか。自分の指示を学生(選手)のせいにして責任逃れをしようとしていた監督やコーチは、思惑通りには行かなかったようだ。そこまでは、世間は甘くはなかった、というべきか。だが、アメフト部の監督やコーチを背後で支えていた大学のドンたちまでは、事の追及はおよばないのだろうか。宮川選手一人の勇気ある反省と行動だけで終わらせるのか。暴力と格闘をはき違えているアメフト部の監督やコーチの体質は、また指導という名の独裁的支配構造は大学の構造であり、大学の支配的構造にメスが入れられるべきとは、誰もが考えることだろう。ここは、時間という経緯の中で、うやむやに処理されてしまうのか。そういう懸念があるが、それを容認しない人々の視線が続いてあることが肝要だ。

 「森友・加計」学園疑惑、その当事者たる安倍首相は「捏造」や「改竄」で逃げ切るのか。「悪貨は良貨を駆逐する」というが、権力犯罪は伝染する。データ不正問題を露呈された三菱マテリアルの新社長は、不正問題の対応は適切だったと幕引きを企てている。やがて、日大の大学当局者は「あの対応は適切だった」とでも表明するか。権力犯罪、権力の犯罪行為は、捏造や隠ぺいなどで闇に処理され、なにごともなかったかのごとく処理されて行くのか。僕らは絶望的な思いにさせられることもあるが、ここで踏みとどまり、悪行が栄えたためしはないと闘おう。政治・社会、つまりは政治的機関や企業や学校などで、形や現象はいろいろであっても、権力的な犯罪、権力が絡んだ犯罪(セクハラやパワハラなどを含め)は、これからの社会の基本的なこととして問われていくだろう。人々の権力構造や権力者に対する視線は厳しくなって行くに違いない。不快が続くだろが、僕らはあきらめてはならない。このいろいろの領域での人々の怒りは、おおきなうねりになるだろうから。

 確かに権力がその強化に走り、権力が過剰化して行くのは、権力の欲望であるとともに病である。近代権力としてのヒットラーやスターリンの演じた権力の過剰化(超権力化)は、後でこそ悪魔の所業として批判されたが、その進行過程や当初では、なかなか批判されなかった。時に、人たちは、これを支持したことも見える。権力の動きに対して、その過程で批判が難しいことは、考え去られることだ。それはよく分かっている。だから、権力の現在の動きに不断に反応し、権力はどうあるべきか、を問わなければならない。このことは戦争に似ている。戦争は、はじまりや、準備過程ではなかなか批判が難しい。戦争は、資本の支配欲でおこるとされてきた。帝国主義の戦争である。それはあるが、権力の欲望(過剰化に向かう自然な欲望)こそが、戦争の原因であり、推力であることを理解しなければならない。権力の欲望は、共同幻想(例えばナショナリズム)で装いされるから、批判が難しいのである。

 不祥事とともに権力の犯罪は発覚するが、僕らは、それ以上に、見えない形態での権力の犯罪、あるいは暴走を見ていなければならない。例えば、原発再稼働し、原発存続を画策する動きである。これを主として推進しているのは、電力会社と経産省である。電力各社は、株主総会で株主からの脱原発の提案を拒否し、原発回帰を色濃くしていると報道されていた。また、経産省は、原発の電源としての存在を肯定する「新エネルギー計額」を確定しようとしている。これは、やがて閣議決定に持ち込まれるだろう。今、あらためて言うまでもなく、この原発推進は、福島原発事故の反省はしていないし、その収拾すら、できていない中でのことだ。

 この原発再稼働を推進しているのは、経産省という官僚、つまりは権力(行政権力)である。彼等は福島第一原発をはじめ全国の原発を推進してきたのであるが、福島での事故に何の責任を取らなかった。早い段階から再稼働の画策をしてきた。再稼働は、表向きは、原子力規制委員会の審査をかかげているが、実際の推進は経産省であり、それは、秘密裡に決められている。その手続きや政策審議というものは、明らかにされずに、秘密裏に、ことは進められている。このプロセス隠しは、責任の回避と表裏一体のものであり、伝統的な日本の権力なあり方だ。「お上」としての日本の権力の常套のすがたである。これは、かつての日本陸軍のやり方と変わっていない。経産省は、今、巷で話題になるような不祥事はやっていないかもしれない。しかし、原発の推進が大きな不祥事であり、その生産であると、みなければならない。

 国会周辺につめかけて安倍政権の所業の抗議している人々の闘いは、結構、長い歳月の中での闘いとなっているが、あきらめてはいないし、「あきらめない」を合言葉にしている。自分自身でも、そのしつこさにうんざりするくらいの闘いをやらねばならない。僕らには、内なる闘いが大事だ。それは、あきらめずに、淡々とだが、長い射程を持った日々の歩みをやることだ。無意識化し、日常化した行為として国会や霞が関一帯での行動を続けよう。そこに足を運べなくても、気持ちはそこに向けていよう。
(三上治)