月別アーカイブ: 2018年1月

霞ヶ浦一周ライド

寒さ厳しく強風の吹き荒ぶ中、霞ヶ浦一周ライドに出かけた。
朝6時起きであったが、こういう時はすっきりと目が覚めてしまう。色々と準備が手間取り7時くらいに出発する。帰りがけにゆったりと温泉に浸かろうと、土浦駅近くの霞浦(かほ)の湯の駐車場に車を停めてロードに跨った。


午後3時くらいから北風が強くなるとの天気予報を信じ、霞ヶ浦総合運動公園というところから反時計回りに出発した。

出発してすぐに、自衛隊土浦駐屯地と隣接する防衛省技術研究所に行く手を阻まれる。岸辺沿いのサイクリングコースが大きく迂回している。
この辺りは戦前に霞ヶ浦海軍航空隊の基地があり、現在でも訓練用の飛行場が残っている。また、横須賀海軍航空隊の予科練習生の教育施設は、現在記念館として残されている。
予科練平和記念館ホームページ


西風が強く、東に向かうルートは快適そのものであった。筑波山をバックに写真を撮ろうと立てかけた自転車が倒れる瞬間。


稲敷市阿波にある大杉神社の前で。正月だったので辺りは大渋滞であった。先を急ぐので、あっさりと通過する。


香取市、潮来市を通り抜け、行方市に入る。この頃より風向きが北西から強く吹きつけるようになり、時速15、6キロで辛抱強く走る。


霞ヶ浦大橋東岸の旧玉造町にあるうどん屋で昼食をとる。カレーセットを掻き込みながら、このまま霞ヶ浦大橋を越えて近道をしようか、後悔のないように一周しようか迷う。少し暖かくなっては来たので、当初の目標通り北を目指す。途中、10年ほど前に廃止となった鹿島鉄道の廃線跡を発見。往時に思いを馳せる。


午後1時を回ってから、風速7、8メートルの北風が真正面から吹き付ける。霞ヶ浦の北側の恋瀬川を渡る橋を目指すがなかなか見えてこない。「訓練だ」「修行だ」と自分の胸に向かって言い聞かせながらペダルを回し続ける。ほとんど休まずに2時間走り続けた。写真は橋を越えところの恋瀬川サイクリングロード沿いの案内看板。この時点で出発して85キロ地点。その後は追い風の中、少し風景を楽しむ余裕も生まれるようになった。


霞ヶ浦大橋西岸にほど近い歩崎公園に到着。この頃より今度は西風が強くなり、時速13、4キロの苦行が続くことになる。風向きに対する恨み節が心の中で爆発する。県道118号線を中心に走ったのだが、体もすっかりと冷え切ってしまい、ただただ対岸に見える牛久の大仏を横目に土浦駅を目指す。写真など撮る余裕もない。


土浦駅近くの風景。進行方向が変わった途端に、風がまったく気にならなくなる。はるか遠くに、大仏のシルエットが見える。


最後は体力だけでなく気力もふらふらになりながら、無事にゴールに到着。7時間半近くかかったが、126キロの距離を走破。大したことないが、良くぞあの強風の中を休みなく走り切ったと満足感に浸る。足先の感覚が無くなってきた身体を温めようと温泉に向かうも、混雑で入浴まで1時間待ちとのこと。泣く泣く(本当にがっかり、がっくりであった)、車中で着替え帰路についた。イルミネーションも楽しまず。
今月の末に200キロのブルベに挑戦するが、色々と反省点の見つかる勉強になるライドであった。

シフトグリップの交換

先ほど、下の子の自転車のシフトグリップを交換した。
6段変速なのだが、子どもの握力では1段、2段に入らないほど固くなってしまっていた。屋根もほとんどない雨晒しのところに置いてあるので、シフトグリップが錆び付いてしまったのだろうと判断し、シマノのものと交換することにした。

元々付いていたサイクルベースあさひのシフトグリップが星型のトルクスナットで固定されていたので、外すのにトルクスレンチを購入せざるを得なかった。また、シフトワイヤーを外してみて分かったのだが、原因はシフトグリップではなく、アウターワイヤーの方であった。ワイヤーの中が錆び付いていたのか、曲がり具合が悪かったのかはよく分からなかったが、シマノの新しいインナーワイヤーに交換したところ、なんとか軽快に作動するようになった。

最後のディレイラーの調整のところは、いまだによく分からない。何度か張り直しを試みて、一応6段全部に噛み合うようになったが、感覚が掴めない。もう少し練習が必要なところであろう。

余談だが、「子どもの自転車を整備する」というのは、自転車好きの親父にとって、自分の趣味の没頭しているという後ろめたさを感じずに、家族のために活動しているという格好の言い訳になる。

元日の東京新聞

新年最初の東京新聞だが、一面トップは、福島除染事業で汚染土を詰めた二重袋の内袋を閉めなかった手抜き作業に関する記事である。流石、東京新聞、ブレない。ここしばらく、廃炉や除染作業の問題はテレビやネットニュースではあまり扱われなくなった。しかし、本来は日本の安全神話の崩壊の象徴なのだから、毎日のように報じられなくてはならない問題なのである。

社会面は米軍岩国基地の機能拡大に関する話である。岩国では、殴り込み部隊といわれる海兵隊のステルス戦闘機の訓練が日々続き、厚木基地からFA18スーパーホーネット戦闘攻撃機など海軍の空母艦載機約30機が移転しており、嘉手納を抜いて極東最大級の航空基地となる。北朝鮮の脅威が喧伝される一方で、日本国内で戦争準備は着実に進んでいる。
また、国が市に出す防衛関連の補助、交付金は2017年度だけで114億円に上るという。見返りの一方で危険に晒される危機も一段と大きくなっている。原発立地と同じ構造である。

2018年は明治150年とも言われるが、大学や高校で広がった全共闘運動から50年の節目でもある。「こちら特報部」では、都立青山高校の60代後半となった元活動家と現代の10代の青年とのやりとりが掲載されている。過去にこだわる団塊世代と未来に託す若者の考え方の違いが手に取るように見える内容だった。
青山高校で自治会議長を務めた中村氏は次のように語る。

 今の自分と違う自分が高校時代にいる。それが恥ずかしい。
 入社した当初は後ろめたさがあり、出世してはいけないと考えた。自分の生き方を貫けているか、と自問自答もした。しかし、そうした葛藤は次第に仕事に持ち込まないようになっていった。

 

また、同じく、青山高校で公務執行妨害で3日間勾留された経験を持つ田中氏は次のように語る。

 日本の経済成長は原発があったからこそだとも思う。私はその成長の恩恵を受け、商売を営み、人間関係を築き、子どもを産んで育ててきた。原発を否定したら果たして今の自分はあったのだろうか。
規則に縛られず、教師と生徒の役割のよる対立も大人の壁もない。私たちが当時、戦った課題の半分以上が解決されている。
体制が黒一色でないと、当時は知らなかった。緑も黄色も織りなしていた人たちがいたのに、黒一色なら赤になろうと思った。多様な人たちがいっぱいいたと気付くのは、社会に出て勉強してからだった。

 

10代の青年である蓑田さんは次のように語る。

 50年前の政治闘争がその後数年で収まったように、2015年の安保法制反対のデモに集まった人たちももうどこに行ったか、分からない。一時の感情の高まりだけでは駄目で、継続が必要だ。

 

スポーツ面ではサッカー全国高校選手権の記事が載っていた。男子も女子も冬休みに全国大会が行われるのだが、日程についてはそろそろ再考するべきではなかろうか。テレビ局の都合で視聴率が取りやすい冬休みに大会日程が設定されているのだが、センター試験直前であり、大学受験を考えている3年生の生徒にとっては勉強どころではなくなってしまう。女子も数年前までは夏にひっそりと行われていたのだが、男子に合わせて1月の開催に変更されている。

プロスポーツや実業団であれば、注目が集まりやすい年末年始の大会は全く問題ない。また、大学生も夏〜秋に就職活動があるので、正月の箱根駅伝も影響は少ないだろう。しかし、高校生は夏までに部活動を引退して本格的な受験モードに入るのが一般的である。

サッカー競技も、高体連主催で8月に全国大会(インターハイ)を実施しているのだが、他競技とのバランスを考慮するためか注目されることは少ない。それよりもプロ選手育成を目指した日本サッカー協会主催の選手権大会がメイン大会となっており、夏から最後のシード争いに向けた大会が始まる。1人のプロ選手を発掘、育成するために100人の生徒の学校生活に影響を及ぼすシステムとなっている。本来高校生が学業と両立を図りながらスポーツに打ち込む環境を整えるべき高体連であるが、サッカーだけは匙を投げてしまったのか、全く別扱いとなってしまっている。高体連とサッカー協会による大会の過密化により、顧問のワークライフバランスまでも犠牲になっている。出演料もないアマチュアの高校生が、テレビ局お得意の美談調な裏話や青春ドラマの演者に仕立て上げられていることには疑問を禁じ得ない。

関宿城まで

新年あけましておめでとうございます。
ここ2、3日、底冷えの寒さであったが、今日は日差しが暖かく感じる絶好のサイクリング日和であった。
午後から、新年最初のサイクリングに出かけた。いつも通り、中川経由でセブンイレブン幸手関宿橋店で小休止し、関宿城まで走った。帰りは幸手にあるジョイフル本田に行こうと思って道に迷いつつ、普段見られない景色を楽しんだ。案の定、営業しておらず、4号線でそのまま帰ってきた。働き方改革の影響か、人手不足なのか、元日営業の店が昨年よりも大幅に減っている。良い傾向である。
帰りに寄り道したため、50キロ弱の道のりであった。