月別アーカイブ: 2016年8月

「奥底のうごめく闇」

本日の東京新聞夕刊の匿名コラム「大波小波」の文章が印象に残った。
オリンピックやスマップの解散報道によってかき消されてしまった感もあるが、戦後最悪とも言われる相模原障害者施設事件の犯人の奇行や手口の残忍さなどの「表象」だけを批判して終わるのではなく、その背景にある社会的「構造」を捉えるべきだという内容である。
短い文章であるが、的を射た力のある文章である。
勉強のつもりで引用してみたい。

 (連続殺人犯のジョン・ウェイン・ゲイシーが刑務所で描いた絵に少数ながら熱狂的なファンがいるという話に続いて)
 おそらく、相模原市の障害者施設で四十五人を殺傷した犯人にもファンが現れるだろう。今回は思想的な背景があるだけに悪しき影響が長引くという危険がある。
 障害者は「人間ではない」「不幸をつくることしかできない」という優生思想に基づき凶行に及んだとされる。残念ながら自己責任論が広がり、経済効率を優先する現代の日本には、事件の前からこうした差別主義者と同じ思想を持つ人間が少なからず存在していた。そして障害者への差別意識は、生活保護や在日の人へのバッシングとも深いところで繋がっているのだ。
 被害者、遺族の無念と怒りに応えるためにも、社会の奥底にうごめく闇とどのように向き合い、いかに戦うべきかを真剣に考える必要がある。

韮山反射炉〜三津シーパラダイス〜千本松原

2016-08-14 10.13.29 2016-08-14 10.20.00
昨日と同じくサイクルスポーツセンターに行く積りだったのだが、生憎の雨模様だったのと、私の日焼けが酷かったのもあり、早々と観光に切り替えた。世界遺産に登録された韮山反射炉に向かった。サイクルスポーツセンターから30分ほどで着いた。

2016-08-14 10.28.17 2016-08-14 10.09.18
【伊豆の国市のホームページより】
反射炉とは、銑鉄(せんてつ・砂鉄や鉄鉱石から作った粗製の鉄で、不純物を多く含む)を溶かして優良な鉄を生産するための炉です。銑鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要ですが、反射炉の場合、溶解室の天井部分が浅いドーム形となっており、そこに炎や熱を反射させ、銑鉄に集中させることでその高温を実現する構造となっています。そこから、反射炉という名称が与えられたのです。
溶かした鉄は、鋳型に流し込んで大砲などに加工されました。近年の発掘調査では砲弾の鋳型などが発見されています。

DSC_7376 2016-08-14 12.54.48
内浦湾にある三津シーパラダイスでイルカやアシカのショーを楽しんだ。ウィキペディアによると、に日本で2番目に歴史の長い水族館とのこと。

2016-08-14 15.18.34 2016-08-14 15.18.37
最後に千本松原の海岸に立ち寄った。疲れも眠気もピークに達しており、20分ほど滞在して帰路についた。

「9条は幣原首相が提案」

本日の東京新聞朝刊1面は、日本国憲法の成立過程で、戦争の放棄をうたった九条は、幣原喜重郎首相(当時)が連合国軍総司令部(GHQ)に提案したという学説を補強する新たな史料を堀尾輝久・東大名誉教授が見つけたとする記事であった。
堀尾氏が注目したのは、1958年に岸内閣の下で議論が始まった憲法調査会の高柳賢三会長とマッカーサーとの往復書簡である。その中で、マッカーサー元GHQ最高司令官は高柳会長に対して次のように返信している。

 (憲法9条は)世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したものであります。本条は、幣原男爵の先見の明と経国の才と叡智の記念塔として、永存することでありましょう。
 戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです。首相は、わたくしの職業軍人としての経歴を考えると、このような条項を憲法に入れることに対してわたくしがどんな態度をとるか不安であったので、憲法に関しておそるおそる私に会見の申込をしたと言っておられました。わたくしは、首相の提案に驚きましたが、首相にわたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安堵の表情を示され、わたくしを感動させました。

幣原首相がそうした提案をした背景について、堀尾氏は次のように述べている。

 日本にはもともと中江兆民、田中正造、内村鑑三らの平和思想があり、戦争中は治安維持法で押しつぶされていたが、終戦を機に表に出た。民衆も「戦争は嫌だ」と平和への願いを共有するようになっていた。国際的にも、パリ不戦条約に結実したように、戦争を違法なものと認識する思想運動が起きていた。そうした平和への大きなうねりが、先駆的な9条に結実したと考えていい。

戦争の放棄をうたった9条の1項だけでなく、戦力の不保持と交戦権を否認した2項についても、日本人である幣原首相の方から提案したということが史料からも証明されたとなると、「極めて短期間の間にGHQから押しつけられた」という理屈は破綻する。大正から昭和初期にかけて日本の民衆の中で熟成されてきた平和主義・民主主義が、日本人の手によって憲法という形で具現化されたのである。保守派と呼ばれている人たちこそ輝かしい日本人の歴史に目を向け、憲法擁護に向けた本来の保守主義を発揮してもらいたいものである。

shidehara
幣原喜重郎 1872〜1951
外交官から政界に転じ、大正から昭和初期にかけ外相を4度務めた。国際協調、軍縮外交で知られる。軍部独走を受けて政界を退いたが、終戦後の45年10月から半年余り首相に就き、現憲法の制定に関わった。

『「青森・東通」と原子力との共栄

渡部行『「青森・東通」と原子力との共栄:世界一の原子力平和利用センターの出現』(東洋経済新報社 2007)を読む。
産経新聞や日本工業新聞で原子力発電の提灯記事を書き連ねてきた著者が、青森県内の東通原発や六ヶ所原子燃料サイクル施設、むつ市使用済燃料中間貯蔵施設、大間原発を礼賛するという内容である。電力会社の会長や自治体の首長、経産省大臣などのインタビュー記事もたくさんあり、際限ない漁業補償費の積み上げや、自治体の祭りの手伝いや無形文化財の保護まで社員が駆り出される実態、2000年代以降の地球温暖化防止の流れの中で息を吹き返した原発政策など、原発を誘致する際の莫大な補助金の流れの一端が理解できた。
現在、むつ市の中間貯蔵施設以外は全てストップしたままであり、原発建設によって生活を破壊された人たちへの補償も滞っている。官民一体となった大掛かりなプロジェクトは一度動き出すと誰にも止められず、誰も責任を取らないものなのである。

先日自民党幹事長のポストを得た二階俊博氏であるが、経済産業大臣当時、自信満々に原子力政策の正しさを主張し、国策としての原子力を強制していくという発言を行っている。3.11当時は民主党政権だったので、直接自民党の誰々を追求するという報道は少なかったが、当時の主管大臣としての責任はどこへ行ったのだろうか。