日別アーカイブ: 2016年8月12日

「9条は幣原首相が提案」

本日の東京新聞朝刊1面は、日本国憲法の成立過程で、戦争の放棄をうたった九条は、幣原喜重郎首相(当時)が連合国軍総司令部(GHQ)に提案したという学説を補強する新たな史料を堀尾輝久・東大名誉教授が見つけたとする記事であった。
堀尾氏が注目したのは、1958年に岸内閣の下で議論が始まった憲法調査会の高柳賢三会長とマッカーサーとの往復書簡である。その中で、マッカーサー元GHQ最高司令官は高柳会長に対して次のように返信している。

 (憲法9条は)世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したものであります。本条は、幣原男爵の先見の明と経国の才と叡智の記念塔として、永存することでありましょう。
 戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです。首相は、わたくしの職業軍人としての経歴を考えると、このような条項を憲法に入れることに対してわたくしがどんな態度をとるか不安であったので、憲法に関しておそるおそる私に会見の申込をしたと言っておられました。わたくしは、首相の提案に驚きましたが、首相にわたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安堵の表情を示され、わたくしを感動させました。

幣原首相がそうした提案をした背景について、堀尾氏は次のように述べている。

 日本にはもともと中江兆民、田中正造、内村鑑三らの平和思想があり、戦争中は治安維持法で押しつぶされていたが、終戦を機に表に出た。民衆も「戦争は嫌だ」と平和への願いを共有するようになっていた。国際的にも、パリ不戦条約に結実したように、戦争を違法なものと認識する思想運動が起きていた。そうした平和への大きなうねりが、先駆的な9条に結実したと考えていい。

戦争の放棄をうたった9条の1項だけでなく、戦力の不保持と交戦権を否認した2項についても、日本人である幣原首相の方から提案したということが史料からも証明されたとなると、「極めて短期間の間にGHQから押しつけられた」という理屈は破綻する。大正から昭和初期にかけて日本の民衆の中で熟成されてきた平和主義・民主主義が、日本人の手によって憲法という形で具現化されたのである。保守派と呼ばれている人たちこそ輝かしい日本人の歴史に目を向け、憲法擁護に向けた本来の保守主義を発揮してもらいたいものである。

shidehara
幣原喜重郎 1872〜1951
外交官から政界に転じ、大正から昭和初期にかけ外相を4度務めた。国際協調、軍縮外交で知られる。軍部独走を受けて政界を退いたが、終戦後の45年10月から半年余り首相に就き、現憲法の制定に関わった。

『「青森・東通」と原子力との共栄

渡部行『「青森・東通」と原子力との共栄:世界一の原子力平和利用センターの出現』(東洋経済新報社 2007)を読む。
産経新聞や日本工業新聞で原子力発電の提灯記事を書き連ねてきた著者が、青森県内の東通原発や六ヶ所原子燃料サイクル施設、むつ市使用済燃料中間貯蔵施設、大間原発を礼賛するという内容である。電力会社の会長や自治体の首長、経産省大臣などのインタビュー記事もたくさんあり、際限ない漁業補償費の積み上げや、自治体の祭りの手伝いや無形文化財の保護まで社員が駆り出される実態、2000年代以降の地球温暖化防止の流れの中で息を吹き返した原発政策など、原発を誘致する際の莫大な補助金の流れの一端が理解できた。
現在、むつ市の中間貯蔵施設以外は全てストップしたままであり、原発建設によって生活を破壊された人たちへの補償も滞っている。官民一体となった大掛かりなプロジェクトは一度動き出すと誰にも止められず、誰も責任を取らないものなのである。

先日自民党幹事長のポストを得た二階俊博氏であるが、経済産業大臣当時、自信満々に原子力政策の正しさを主張し、国策としての原子力を強制していくという発言を行っている。3.11当時は民主党政権だったので、直接自民党の誰々を追求するという報道は少なかったが、当時の主管大臣としての責任はどこへ行ったのだろうか。

『屈辱ポンチ』

町田康『屈辱ポンチ』(文藝春秋 1998)を読む。
何の脈絡もないエピソードが延々と続いていく。話のテンポが良かったので最後まで読んだが、物語の意味を理解することはできなかった。
表題作のほか一編が収録されているが、もうお腹いっぱいで読む気になれなかった。