本日の東京新聞朝刊1面は、日本国憲法の成立過程で、戦争の放棄をうたった九条は、幣原喜重郎首相(当時)が連合国軍総司令部(GHQ)に提案したという学説を補強する新たな史料を堀尾輝久・東大名誉教授が見つけたとする記事であった。
堀尾氏が注目したのは、1958年に岸内閣の下で議論が始まった憲法調査会の高柳賢三会長とマッカーサーとの往復書簡である。その中で、マッカーサー元GHQ最高司令官は高柳会長に対して次のように返信している。
(憲法9条は)世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したものであります。本条は、幣原男爵の先見の明と経国の才と叡智の記念塔として、永存することでありましょう。
戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです。首相は、わたくしの職業軍人としての経歴を考えると、このような条項を憲法に入れることに対してわたくしがどんな態度をとるか不安であったので、憲法に関しておそるおそる私に会見の申込をしたと言っておられました。わたくしは、首相の提案に驚きましたが、首相にわたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安堵の表情を示され、わたくしを感動させました。
幣原首相がそうした提案をした背景について、堀尾氏は次のように述べている。
日本にはもともと中江兆民、田中正造、内村鑑三らの平和思想があり、戦争中は治安維持法で押しつぶされていたが、終戦を機に表に出た。民衆も「戦争は嫌だ」と平和への願いを共有するようになっていた。国際的にも、パリ不戦条約に結実したように、戦争を違法なものと認識する思想運動が起きていた。そうした平和への大きなうねりが、先駆的な9条に結実したと考えていい。
戦争の放棄をうたった9条の1項だけでなく、戦力の不保持と交戦権を否認した2項についても、日本人である幣原首相の方から提案したということが史料からも証明されたとなると、「極めて短期間の間にGHQから押しつけられた」という理屈は破綻する。大正から昭和初期にかけて日本の民衆の中で熟成されてきた平和主義・民主主義が、日本人の手によって憲法という形で具現化されたのである。保守派と呼ばれている人たちこそ輝かしい日本人の歴史に目を向け、憲法擁護に向けた本来の保守主義を発揮してもらいたいものである。
幣原喜重郎 1872〜1951
外交官から政界に転じ、大正から昭和初期にかけ外相を4度務めた。国際協調、軍縮外交で知られる。軍部独走を受けて政界を退いたが、終戦後の45年10月から半年余り首相に就き、現憲法の制定に関わった。