五木寛之討論集『思想への旅立ち』(河出書房新社 1975)を読む。
昨日手に取った塩野七生さんとの対談集を読んで正月気分を味わうことができたので、本棚の奥に長年眠っていた本を手に取ってみた。
1970年代前半の、現在から見ればまだまだ「熱い」時代の様々な雑誌に掲載された討論が収められている。『朝日ジャーナル』や『情況』などの時代を象徴する雑誌の誌上で、菊池昌典、武満徹、内村剛介、唐十郎、寺山修司、山下洋輔、塚本邦雄、篠山紀信、高畠通敏の9人と五木氏が政治から音楽、文化、思想まであらゆる諸相について語りつくす。学生運動と芸術や文学との関係、戦中派と戦後派の相克、運動としての演劇など、『青春の門』での「自立編」「放浪編」で主人公伊吹信介が抱えていた悩みについて熱く語られていた。ちょうど私が高校生の頃に憧れていた政治や社会批評、文化評論が載っていたので、当時の音楽や映画の題名などほとんど分からなかったのだが、何となく楽しむことができた。
ちょうど五木氏が、今の自分と同じ40代前半の時の討論集なのだが、五木氏の語りの広さに閉口するしかなかった。また、劇作家の唐十郎さんの「身体論」が非常に新しいと感じた。
印象に残ったやり取りを引用してみたい。
五木 「キャバレー」という映画でね、ファシズムというものをセックスの問題として把えていたのでひじょうにおもしろかった。ぼくらは政治的偏見から自由にならなくてはいけないけれども、性的偏見からも自由にならなければならない。つまり、春闘の問題と性の問題を同じ次元で語らなければいけないんじゃないか。
寺山 それはそうだ。二十年前からデモも同じ文句を掲げて同じ歩みで歩く。その意味でエロスがないですよ。エロスなき政治運動は自滅する。