高橋和己『わが解体』(河出書房新社 1971)を読む。
冬休みなので、少し堅い本でもと思い手に取ってみた。
高橋和己氏は、その研究内容よりも、1969年の大学紛争の渦中、新左翼寄りの立場をとり学生の直悦民主主義を支持し、京都大学の教授会を批判した文学者として知られる。しかし、大学助教授としての彼の批判は、新左翼の学生の目には体制内批判とも理解されていった。彼は敵からも仲間からも批判の対象となり、心労が続き大学を辞職し、結腸癌により40歳の若さで命を閉じている。
この『わが解体』は、表題作の他、入院生活や手術の模様を綴った『三度目の敗北』、市中デモで命を落とした学生存在について疑問を発する『死者の視野にあるもの』、そして、民青と新左翼のゲバルト、また新左翼の党派内部の内ゲバについて、辛亥革命やソ連の共産主義革命を引き合いに論じた『内ゲバの論理はこえられるか』の3作が収められている。
どの作品も、ロマンチックに片方の勢力を鼓舞するものではなく、マスコミ的に外野から論じるものでもなく、当時の文部省の出先機関である国立大学の教職員の立場を代弁するものでもない。当事者として「学生—教授会」の対立の橋渡しを引き受けながら、対立が激化する中で、自らの存在意義を失っていく一文学者としての悲痛が描かれる。
彼のそうした微妙な思想のありようを示す一文があったので引用してみたい。
1968年3月京都大学に機動隊が導入されることになり、反対する学生が投石で応じ騒然とした事態が生じた。そこで、学生のシュプレヒコールの怒号のうちの一つに「機動隊帰れ、ここは貴様らの来るところじゃないぞ」という声が起こる。たまたまその場に居合わせた著者はそうした声に優越者の奢りを感じる。
人の生涯やその生計のあり方は、哲学的には絶えざる各人の自立的選びの集積としてあるべきものながら、些細なことが決定的要因となったり、その人個人の責任には属さぬ条件が大きく運命としてのしかかることのあるのも、四十年近い生を生きてきてみれば認めざるをえない。同年輩の青年のある者が、学生となり、他のものが機動隊員となるのも、そのきっかけは、ちょっとした偶然や、その人のまだ完全には自律的たりうる以前の家庭や資質などの条件に支配されることの多いものであろう。そうした条件に押されて生まれる最初の小さな差異は、やがて、この社会の機構にくりこまれて巨大な落差となり、さらには自分の立場にその精神を同化させてゆく人間の習性によって容易には転換できぬ対立ともなる。その対立の上に、一方の憎悪は他方の憎悪に増幅し、相互拡大してゆくのも今のところはやむをえない。一つの観念をそれと対立する観念との相互包摂下に理解し、一つの立場への了解は同時に敵対的立場の者へのなにほどかの洞察をうながす文学的な思惟習性を身につけてしまっている私は、一瞬、自分が仮に機動隊員の一員であったとして、投石と、先の罵声のどちらがより深い傷となるだろうかと考えてしまったのである。