日別アーカイブ: 2012年1月31日

「原発と基地の欺瞞」

本日の東京新聞朝刊に、東京大学大学院教授の高橋哲哉氏のインタビュー記事が大きくとりあげられていた。高橋氏の専門は西洋哲学であるが、福島と沖縄、ともに「犠牲のシステム」に組み込まれていると述べる。高橋氏は靖国神社について次のように述べる。

宗教では犠牲という観念が非常に大きい。神への供え物として動物、場合によっては人間の肉体がささげられた。宗教が社会から退いた後も、国家が国民に犠牲を要求する。日本の場合、靖国(神社)がその典型だった。

そして、敗戦後も犠牲のシステムは変わらず、その象徴が沖縄だった。そして、今回、その犠牲のシステムは沖縄だけでなく、原発推進政策の構造にまで及んでいることが白日の下にさらされた。

原発は、経済分野における犠牲のシステムだ。沖縄の米軍基地は沖縄県民が誘致して存在しているわけではない。福祉などの原発立地地域は一応、地元が誘致する形を取っている。この違いを無視することはできないが、類似した犠牲のシステムが見て取れる。

高橋氏は、犠牲のシステムを次のように定義する。

ある者たちの利益が、他の者たちの生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望など)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされる者の犠牲なしに生み出されないし、維持されない。この犠牲は通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業など)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている。

では、福島事故の責任を負うべき「犠牲にする者」は誰なのか。高橋氏は次のように述べる。

一義的な責任は原子力ムラの人たちにある。中央の政治家と官僚、東電、学者たちだ。なかでも最大の責任は東電の幹部にあるでしょう。この人たちの責任が追求されていない。

原発推進の責任を問われるべき人が事故後、(政府の審議会などで)問う側になっている。原発の安全性を宣伝してきた人たちは、身を引くべきだ。

原発にはさまざまな人々が関わってきた。原発の電力を享受してきた都市部の人間も、犠牲にする側に立ってきた。避難している福島の人たちの一部も、経済的な苦境を脱するためとはいえ、原発を誘致した責任がある。県レベルで原発を推進してきた知事や原発周辺自治体の首長、議員の責任も否定できない。

犠牲には何らかの補償が伴うが、高橋氏は次のようにまとめる。

旧日本軍の犠牲者は、靖国神社に英霊として祭られ、遺族年金などで経済的に慰謝された。沖縄や福島では、理念的には『安全保障・国のエネルギーに貢献している』と思わされ、経済的には、交付金・補助金による利益誘導が行われた。この構造は靖国と変わらない。

そして最後に次のように述べる。

沖縄も福島も国民的規模で可視化された。もはや『自分は知らなかった』では済まされない。犠牲のシステムを維持するのであれば、だれが犠牲を負うのかをはっきり言わなければ無責任だ。だれかに犠牲を押しつけ、自分たちだけが利益を享受するのか。それができない以上、原発と米軍基地自体を見直すしかない。

上手く糊塗されてしまう「犠牲」というシステムは、「お客のため」「市民のため」「家族のため」というお題目で、日本社会の隅々まで蔓延している。そうした構造まで明らかにした上で、問題を見ていくことが必要である。