香山リカ『若者の法則』(岩波新書 2002)を読む。
「いまどきの若者は……」という愚痴は、はるか古来より「大人」の口を出たセリフである。しかし、携帯電話やインターネットの普及でこれまでは大きく異なった「若者」が出現してきたと著者は指摘する。
著者は最近の若者を、「確かな自分をつかみたい」「どこかでだれかとつながりたい」「まず見かけや形で示してほしい」「関係ないことまでかまっちゃいられない」「似たものどうしでなごみたい」「いつかはリスペクトしたい、されたい」の6つの法則で説明する。どれも著者の大学教員としての実体験に基づくものであり、「なるほど」と頷いてしまうものが多かった。
その中で、「先生」という項目が面白かった。著書の内容を以下少しまとめてみた。
今の若者は学校の先生などに関心がないのかと言うと、そんなことはなく、先生に関するウワサ話は大好きであるという。「○○先生っておしゃれだよね」とか、「あの先生、授業のときってけっこう笑顔がかわいいよね」など、何気ないウワサを延々と語り合っては、笑ったりびっくりしたりしている。若者にとって「先生」というのは、自分と密接にして特殊な関係にある。先生は自分に何かを定期的に教えてくれる大人であり、さらには成績や進級、卒業などを決定する権利を持つ大人である。今の若者たちにとって、そういう関係性のはっきりした大人というのは、決して多くはない。親戚づき合いも減り、町内会長や近所のご意見番といった、役割の明確な大人も身のまわりから姿を消しつつある。親でさえ、「友だち親子」と言われるように自分と地続きの人間になってしまった。
精神医学の中でも、これを「世代間境界の喪失」と呼んで問題視する動きがあるようだが、「だれでも友だち」という人間関係は、一見、風通しがよいものに見えるが、実は若者たちはその中で、自分をうまく位置づけることができず、いつまでも自分が何者かを定められずにいるのではないか、というのだ。そういう意味で、関係が見やすくはっきりしている先生というのは、若者にとっては分かりやすく安心できる存在なのだろう。
もちろん、当の先生たちにとっては、学生が授業や研究の内容についてではなく、自分のウワサ話を語っているというのはあまり愉快ではないだろう。ただ彼らはそうやって、自分と密接な関係があり、ちょっとだけ自分に影響力を持つ大人について語る喜びを満たしているのである。「先生のくせに朝までカラオケに行っちゃったらしいよ」などと、「○○のくせに」というフレーズを堂々と使ってもよい大人は、もしかしたら彼らには先生しかいないのかもしれないのだ。
だから先生というものは、十分に若者たちがウワサの対象にしたくなるようなユニークな言動やファッションをして見せる必要も時にはあると思う。もちろん自分が持っているちょっとした力を悪用したセクハラなど、ダークなウワサになるようなことをするのは言語道断。そして、「あの先生ってさ」とチャーミングなウワサが十分、語られるような先生なら、若者はその授業や研究にも関心を持ってくれるはずなのだ。今の若者にとっては数少ない関係性のはっきりした大人である先生。その役割は意外に大きいが、それを自覚している先生は残念ながらあまり多くない。