関東学園大学のパンフレットを読む。
群馬県太田市にあり、経済学科と経営学科からなる経済学部と法学部、そして大学院から構成される小規模の大学である。
どちらの学部にもスポーツマネージメントコースが設置され、経済や法律の勉強と併行して、保健体育の教員にもなれるという「贅沢」なコースである。パンフレットを読む限りは、学問内容よりも、資格取得と就職支援、特待生・奨学金制度の充実を売りとした典型的な郊外型大学である。とりたてて特徴のない大学である。
入学者の学力は決して高くはないためか、コンピンテンシー(社会に対応し、適応する力)育成プログラムが一年次に導入され、少人数制による基礎学力充実とモチベーションの向上が図られている。女子サッカーやソフトボールが強化クラブとして活動しているようだ。
「人口論」で有名なイギリスの経済学者マルサスの自筆文書が保管されていることが、他大学と差別化を図る唯一の宣伝材料か。
月別アーカイブ: 2008年12月
『しのびよる階級社会:”イギリス化”する日本の格差』
林信吾『しのびよる階級社会:”イギリス化”する日本の格差』(平凡社新書 2005)を読む。
著者は、10年に亙る英国での生活を踏まえ、厳然たる階級格差に根ざしたイギリス人の生活、経済、教育制度を分かりやすく述べる。米国には人種差別があるが、イギリスには人種「区別」があると巷間言われる。イギリスでは、言葉や生活スタイル、趣味、義務教育など多くの場面で、上流階級と労働者階級には大きな隔たりがある。
著者は、英国の一部を知っただけで英国のありようそのものを礼賛する一部の学者の悪影響で、日本にも公教育制度を契機として生まれながらにして人生が決定されてしまう新たな階級制度が根付いてしまうことを危惧する。
著者は次のように述べる。
1990年代より、「ゆとり教育」なる美名のもとに、「見えない三分岐システム」のごときものが生み出されてきた。
- くどいようだが、確認しておくと、義務教育段階から私立校に通うエリート層
- 公立校の、ごく一部の秀才組
- 公立校の「その他大勢」組
……という具合に振り分けられつつあるのだと考えてよい。
『ルポ 貧困大国アメリカ』
堤未果『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書 2008)を読む。
著者は東京新聞の朝刊にコラムを持つ気鋭のコラムニストであり、文章が非常に鋭く、かつ読みやすいので手に取ってみた。
圧倒的な軍隊の力で世界の警察を自任し、世界共通通貨であるドルを普及させることでグローバル経済を主導するアメリカの国内で、貧困が恣意的に生み出され、その貧困を利用した軍事ビジネスが花盛りというSFアニメのような現実が克明に描かれる。
貧困家庭への食費保護がブッシュ政権になってから削られ、栄養のないカロリーだけのジャンクフード漬けの毎日で貧困の肥満児が増えているという。また、医療そのものが民営化され、未保険者が高騰する医療費を払うことが出来ず、生活が破綻する国民が急増しているそうだ。そして、9.11以降、高校生の個人情報が学校を通じて軍に流され、そして大学の授業料などを餌に、貧困家庭の高校生に軍隊へのリクルートが殺到しているそうだ。その勧誘も全てノルマがあるため、リクルーターに騙されてイラクの前線に送られる若者も多い。また、イラクでは武器弾薬を扱うのは米軍であるが、その兵士の生活を支えたり、弾薬の輸送や管理の大半は何層にも連なった派遣会社に委ねられ、低賃金で命の保障もない悪条件で貧困層の人たちが働かされている。
何やら、アフリカや南米の独裁国家での話のように聞こえるが、これが日本が見本としてきたアメリカの現実である。医療、教育、消防、軍隊などあらゆる分野で民営化、競争主義を導入した結果、一度の失敗や病気、災害で貧困に陥る家庭が急増し、一部の富裕層と多くの貧困層に色分けされていく。アメリカのNGO「世界個人情報機関」のスタッフのコメントが印象的であった。
政府は格差を拡大する政策を次々に打ち出すだけでいいのです。経済的に追いつめられた国民は、黙っていてもイデオロギーのためではなく、生活苦から戦争に行ってくれますから。ある者は兵士として、またある者は戦争請負会社の派遣社員として、巨大な利益を生み出す戦争ビジネスを支えてくれるのです。大企業は潤い、政府の中枢にいる人間たちをその資金力でバックアップする。これは国境を越えた巨大なゲームなのです。
そして、ニューヨークにあるNPO「イラク帰還兵反戦の会」の創設者の一人は次のように語る。
戦争をしているのは政府だとか、単に戦争vs平和という国家単位の対立軸ではもはや人を動かせないことに、運動家たちは気づかなければいけません。私たち帰還兵も、民営化された戦争を支える戦争請負会社やグローバル派遣会社の実態を知らせるだけでは弱いのです。何よりそれら大企業を支えているのが、実は今まで自分たちが何の疑問も持たずに続けてきた消費至上ライフスタイルだったという認識と戦争意識を、まず声を上げる側がしっかりと持つことで、初めて説得力が出てくるのです。
本日の夕刊
本日の夕刊の作家星野智幸氏のコラムが目を引いた。「右傾化」、そしてその延長としての「自由経済礼賛」の起源が1999年にあるという彼の指摘は共感できる。1995年の阪神大震災とオウム事件によって社会の不安が増大し、警察の活躍を鼓舞する番組が乱発され、それらを囲い込むように「国家」が法的に前面に現れだしたのがちょうど1999年辺りだったと思う。
来年は2009年だが、1999年の日記に私は次のようなことを書いている。
「1999年は日本の右傾化元年だと記憶することにしている。右傾化とは、国旗国歌法や通信傍受法を成立させガイドライン改定を行なうといった出来事だけでなく、自己を何か曖昧で集団的なものに委ねることが本格的に始まった動きを指す。オウム真理教の代わりに、誰もが納得でき言い訳の立つものに帰依しようとしている。そして政治がそれにお墨付きを与える」
当時の私は、「何か曖昧で集団的なもの」が「日本」であり、ナショナリズムが沸騰して全体主義的な暴走を始めることを危惧していた。
けれど右傾化十年目を迎える今の社会を見渡せば、日本社会がいかに壊れているかばかり目立ち、国に「誇り」を持つどころではない。
今から思えば、十年前に起こっていたのは、「国権の発揚」だったのだろう。それまでの主権在民を尊重する姿勢をかなぐり捨て、国家が権力をあからさまに振るい始めたのだ。九〇年代の停滞を一気に変えてくれるかもしれないと期待して、小渕政権や小泉政権に帰依した結果、国民は国の経済に奉仕する奴隷と見なされた。「日本」に身を委ねれば委ねるほど、隷属させられ、搾り取られ、使えなくなれば捨てられる。
この状況を一気に打開してくれるカリスマを求めるような真似はもうやめにして、来年こそは自分たちで変える意思を持とうではないか。この十年をさらに悪い形で繰り返さないためにも。
『K−20(TWENTY)怪人二十面相・伝』
子どもをお風呂に入れてから、時間が余ったのでララガーデンに出掛けた。佐藤嗣麻子監督・金城武、仲村トオル主演『K−20(TWENTY)怪人二十面相・伝』(2008 東宝)を観た。
あまり期待もせずに気晴らしのつもりでふらりと観たのが正解だった。予告もほとんど観ておらず、話の概要も全く頭に入っていない状況だったので、先の展開が全く読めず、はらはらどきどきの連続であった。タイトルだけ見ると怪奇な探偵映画なのかと予想してしまうが、豈図らんや、ファンタジーSF映画のようなタッチで、ちょうど宮崎駿監督の映画『天空の城ラピュタ』を観ているようなわくわくする興奮を覚えた。
今年も十何本か映画を観たが、その内のベスト3に数え上げて良い作品である。