月別アーカイブ: 2007年11月

『少子化で伸びる学校:開智中高一貫部の挑戦』

合格アプローチ編集長 千葉義夫『少子化で伸びる学校:開智中高一貫部の挑戦』(グローバル教育出版 2006)を読む。
埼玉県さいたま市岩槻区で開校10年目を迎える私立の開智中高一貫部の教育内容の紹介である。おそらくは説明会などで販売・配布しているのであろう。受験生の保護者に向けた学校の宣伝本といった内容である。
開智中高一貫部は「創造型・発信型の心豊かな国際的リーダーを育成する」という教育理念を掲げ、既存の私立高校の経営を引き継ぎ、1997年に開校された新しい学校である。そのため、進学実績のみならず、コミュニケーション能力やプレゼンテーション能力を高めることに主眼を置き、学問に対する意欲や国際性、人間性も涵養する教育内容を備え、熱意溢れる教員と共に作り上げている学校であると鼻息が荒い。特にカリキュラムにおいては「フィールドワーク」と「探求テーマ」を取り入れ、創造性・表現力を高めることを重視している。東大京大早慶などの難関大学突破に向けた予備校要らずの進学補習の充実だけでなく、実際に森の中や磯辺に赴き、各自の体験を踏まえた問題意識を5年間かけて追求し、企業や英国の大学にまで行って議論を展開し、学園祭で発表するといったアメリカの私立学校のような教育である。ちょうど、悪名高い「総合的な学習の時間」を先取りするような教育であり、20世紀のアメリカのジョン・デューイの「問題解決学習」やジェローム・ブルーナーの「発見学習」といった進歩主義的な教育課程を現代風にアレンジしたような趣だ。

□ 開智学園 中高一貫部□

ここしばらく疲れが澱のように溜まっている。自分ではあまり意識できていないので危険である。明日はゆっくりと休みたい。先程、お風呂の中で、三島由紀夫の『仮面の告白』を数ページ読んだが、明日はゆっくりと布団の中で読書三昧といきたいものだ。休日に朝寝坊をして布団の中でまどろみながら読書をするというのが何よりの贅沢のように感じる。

時・人・会議・金・掃除・注意・鍵締め・指導・指導・指導 瑣事に追われし 高校教諭 睡眠怠惰求めに ひた走る

「希望降任制度」

本日の東京新聞夕刊の一面に、全国の公立小中高などの校長や教頭が自主的に一般教員などに「降格」となる「希望降任制度」を2006年度に利用したのは調査開始(2000年度)以来最多の84人に上ったとの記事が載っていた。
記事内容によると、特に教頭や主幹教員から一般教員への降任が大半を占める。学校は通常管理職の校長・教頭以外はベテラン教員も新人教員も同じ階級の「鍋ぶた型」組織であり、特に教頭に学校運営の管理業務が集中し、ストレスから心身の健康を崩す事例が多いのではということだ。

確かに、教頭職は不必要な書類作成や校舎管理などに忙殺される学校運営だけでなく、我が子中心主義の親や、年齢だけ大人のお子ちゃま教員に直接対応することが多く、その激務ぶりは傍から見ても同情ものである。文科省では学校教育法で「主幹教諭」の設置を規定し、管理職の業務を分担する方向を打ち出しているが、思ったほどの効果は期待できないであろう。学級経営も同じであるが、一部の人間のわがままで職場が振り回されていては運営が成り立たない。児童生徒や学校、教育そのものにそっぽを向いてる「不適格教員」を排除していくような弾力的な人事管理が求められるであろう。

その際、甘かろうが厳しかろうが、また一人一人を大事にするやり方であれ、全体の和を重んじるやり方であれ、右であれ左であれ、権威主義的であれ、平等主義的であれ、ベクトルは様々あれど、あくまで生徒の方向を向いている教員を大切にしたい。生徒や教育に向き合えば向き合うほど悩みはつきないし、教員としての資質そのものを反省する時もある。そうした気持ちのぶれはお互いに共有し、支え合う職場環境がまず求められる。現在行われている教育委員会の恣意的な人事評価や「不適格」認定ではなく、教員の「熱意?」(うまく表現できないが)を慮ってもらいたいものである。日常的に感じることなのでついついキーボード叩く指に力が入ってしまった。画面上ではこのアナログ的な力入りが表現されることはないが……。

『小さき者へ・生まれ出づる悩み』

有島武郎『小さき者へ・生まれ出づる悩み』(新潮文庫 1955)を読む。
『小さき者へ』の方は、私の授業でほぼ毎年扱っているこなれた題材なのだが、『生まれ出づる悩み』は初めて読む作品であった。両作品とも大正7(1918)年に書かれた作品である。
同じ時代、同じ地域で生活しながら、片や生活の苦労に全く係うことなく暇を持て余す者がいる一方、片や生きるために一分の隙を見せずに身構えていなければならないような境遇に置かれる者もいる。その片方の側の不遇な生き方を強いられる一人の画家を目指す漁夫の日常を描きながら、日常からの逃避や自殺にも負けない生きること自体の力強さや素晴らしさを鷲掴みにする。

作者は作中人物をして、生活と夢の両立の難しさについて、次のように言わしめる。何か現在の自分の心境と重なっており、特に印象に残った。

俺が芸術家であり得る自身さえ出来れば、俺は一刻の躊躇もなく実生活を踏みにじっても、親しいものを犠牲にしても、歩み出す方向に歩み出すのだが……家の者共の実生活の真剣さをみると、俺は自分の天才をそう易々と信ずる事が出来なくなってしまうんだ。俺のようなものを描いていながら彼らに芸術家顔する事が恐ろしいばかりでなく、僭越な事に考えられる。俺はこんな自分が恨めしい、そして恐ろしい。皆んなはあれ程心から満足して今日々々を暮しているのに、俺だけは丸で陰謀でも企んでいるように始終暗い心をしていなければならないのだ。どうすればこの淋しさから救われるのだろう。

そして、最後は以下の言葉で苦界を生きる人たちを懸命に応援する。

君よ! 今は東京の冬も過ぎて、梅が咲き椿が咲くようになった。太陽の生み出す慈愛の光を、地面は胸を張り拡げて吸い込んでいる。春が来るのだ。
君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春が微笑めよかし……僕はただそう心から祈る。

「太郎の国際通信」

本日の東京新聞夕刊の木村太郎氏のコラム「太郎の国際通信」に、ボジョレ・ヌーボーのよもやま話が載っていた。
ボジョレ・ヌーボーとはフランスのボジョレ地方のワインで、毎年11月の第3木曜日の午前零時に解禁するイベント商法が成功し、世界的商品となっている。特に日本は世界に出荷される半数を消費する「ヌーボー大国」である。
木村氏はボジョレ・ヌーボーの歴史やうんちくを紹介した上で、「世界的に消費者から飽きられているワインの半数を日本で消費するというのも尋常ではないだろう。そろそろヌーボー騒ぎもほどほどにしてもよいのではないだろうか」と述べる。しかし、よくよく読めば大きなお世話である。流行に躍らされていようが、消費者自身の選択に対して、高みに立ってけちをつける、その態度が気に入らない。

「経済潮流」

本日の東京新聞夕刊の「経済潮流」というコラムに少子化対策の民営化なる記事が載っていた。
記事によると、子育ての不安感は専業主婦よりも共働きの主婦の方が軽いという。そして、記者は「この意外な結果は企業が今後少子化対策に取り組めば、効果が期待できることを示唆している。つまり少子化対策は行政だけで考える必要はないということだ。近年、民間でできることは民間での掛け声とともに、行政権限の民間委譲がすすんでいる。刑務所さえ企業が設置、運営管理する時代だ。少子化対策を企業が担ってもおかしくな い」とまとめる。

同日の東京新聞朝刊の一面は、防衛省の守屋武昌前事務次官の防衛専門商社からの接待、便宜供与についての証人喚問の事件であった。
私は、常々宮内庁と防衛省の二つに極めて税金の無駄遣いが多いと感じていた。特に自衛隊は防衛という錦の旗の下、競争原理も公務員倫理すらまともに機能しないほどの組織運営である。過激な意見かもしれないが、宮内庁はきちんと信教行為を行えるよう一宗教法人として独立させ、防衛省はその大半を民間に委託してよいと思う。中堅企業では総務部すらアウトソーシングする時代である。防衛もセコムやアルソックなどに任せてよいのではなかろうか。